劇場上映中&これから劇場上映となる映画から、映画のプロが選んだ偏愛作品を、
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recommendation & text : SYO
映画をメインとする物書き。1987年生まれ。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクションや映画情報サイト勤務を経て独立。
インタビューやレビュー、オフィシャルライターほか、映画にまつわる執筆を幅広く手がける。2023年公開の映画『ヴィレッジ』をはじめ藤井道人監督の作品に特別協力。「装苑」「CREA」「WOWOW」等で連載中。
X(Twitter):@syocinema
観てしまった。自分の人生において、これほどこの言葉がしっくりくる映画にはもう出合えないかもしれない。クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』(3月29日公開)。「原爆の父」と呼ばれた実在の科学者を描いた本作は伝記映画として歴代No.1ヒットを記録し、先の第96回アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演男優賞を含む最多7冠を成し遂げた。映画史においても、近年の公開作品においても間違いなく必見の一作と言えるだろう。
ただ、自分が本作を手放しで「観たい! 楽しみ」と思えていたかといえばそうではない。ノーラン監督の新作を観たいと思う映画ファンとしての自分と、原爆の開発者を題材にした作品を前に冷静でいられるかわからない日本人としての自分と——。普段自分を「日本人だ、日本国民だ」とことさら意識して生きているわけではないが、やはり、看過できないほどのテーマが本作にはある。唯一の被爆国で生まれ育ち、幼少期から学校等で原爆の恐ろしさを教えられてきた自分のアイデンティティが、はなから拒絶するような感覚……あまり覚えのない反応や感情の持っていきどころ、そしてどれだけ覚悟をしていけば足りるのかわからないまま、試写会当日が来てしまった。IMAXの大画面とリッチな音響設備で本作を観て――身体が二つに引き裂かれるような想いを味わった。
ひとつは、とんでもないクオリティの映画を観た興奮。そしてもうひとつは、被爆国に暮らす一個人としての苦しみ。相反する二つが身体に流れ込んできて、情緒がぐちゃぐちゃになってしまった。しかし同時に、「こんな状態になるのは『オッペンハイマー』だけだろうな」とも感じて——。映画体験として、唯一無二のものに出合ったことは間違いない。
ここからは『オッペンハイマー』という映画の何がすごいのか?を自分なりに書いていきたい。まず驚かされたのは、冒頭からフルMAXで畳みかけてくる画と音の洪水。通常、自分が見慣れている映画作品の始まりは「配給会社や制作会社のロゴが出る」→「画や音が最初は穏やかに、徐々に激しくなっていく」といったもの。しかしこと『オッペンハイマー』においては冒頭から凶暴なまでの劇伴・音響・映像のラッシュで、我々の目や耳を一瞬にして切り替えさせる。音圧もすさまじく、ライブ会場に来た時のように空気が振動して鼓膜がビリビリと震えた。映像においては、いわゆる現実パートに主人公オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)に見えている世界のイメージ映像=原子の世界がフラッシュバック的にインサートされる。かつ、編集的なテンポが相当速い。オープニングは主にまだ学生だった頃の悩めるオッペンハイマーの姿を描いていくのだが、ナイーブなシーンにもかかわらずこちらに飛び込んでくる情報量オラオラ系ともいえるもので「これが180分続くの!?」と度肝を抜かれてしまった。
いきなり掴みかかってくるような『オッペンハイマー』の攻めの構成。しかもそこにモノクロ映像も入ってきて、現在と過去が交互に展開する(画角も変わる)テクニカルな仕掛けが施されている。しかしそこは流石としか言いようがないのだが——観ているぶんには全く問題がないどころか、快感すら覚えている自分がいた。テンポが速く、(乱暴な表現だが)ガチャガチャしているとも言われかねない情報の洪水、登場人物も多ければ専門用語も飛び交うためついていくのが大変なはずなのに、併走できている。筋を追ったり理解したりすることにパワーを使いすぎて登場人物の感情にまで心が届かない……なんてこともない。
特に中盤以降は、オッペンハイマーを中心とする関係者たちが抱く感情の一つひとつに揺さぶられ、同時に「でも自分はこう思う(許せない/認められない/絶望する)」といった激情も生まれてくるものだから、常に複数の感情や気分が入り乱れ続けた。並行して、映画的な部分だけを掬い取ってこんなの観たことない!すごい!と感じてしまう自分もいるため、どこに感情のメインを定めたらよいのか混乱状態に陥ってしまった。ただそれでも映画は続くし、自分も観続けるし、心以外の器官が満足しているのだ! ものすごくアップテンポだがノイズを感じず、振り回され続けるのに自我を失うことはなく180分があっという間——全編を通して“動”の映画だった、という印象だ。
冒頭に「観てしまった」と書いたが、観賞直後の感覚としては「観ることができてしまった」あるいは「観られる状態に持っていかれてしまった」というものだった。感情がズタズタになっても席に座り、目をそらせなかったのは映画的な満足度が桁違いだったからだ。そういた意味で、クリストファー・ノーラン監督をはじめとするチームの仕事ぶりには驚嘆させられた。
『オッペンハイマー』には、原爆が落とされた広島・長崎の被害を直接的に描いた描写はない。オッペンハイマー自身が3年がかりで原爆を完成させたあと、蚊帳の外に置かれて投下をラジオの放送で知ったという事実があるからだ(極秘プロジェクトのため、そのために町まで作って移住したのに)。冒頭シーンから「オッペンハイマーの視界」で構成されている本作には、彼が目撃できなかったものは描かれない。ただ、痛みがなかったかといえばそんなことはなく、原爆が完成した瞬間に達成感で狂喜乱舞する映画内の者たちを目撃する自分の中には、「大量破壊兵器を作ってしまったんだよ!?」という強い感情が走るし、本作の作り手たちも原爆の開発を決して“是”として描く作り方をしていない。いま述べたシーンでも全員が有頂天なわけではなく、己の罪深さに耐えられず嘔吐してしまう人物も描かれる。開発前にはオッペンハイマーと友人の科学者との間で「本当に原爆を生み出していいのか」という議論もなされるし、ナチスとの競争の中で「一刻も早く完成させなければ世界が終わってしまう」という危機感を抱いていたことも描かれる。自分たちが最強の武器を作って保有することで抑止力となり、世界の均衡を保とうとする想いも理解はできる。だからといって当然、人が人を殺めていいことには決してならないし、開発後もオッペンハイマーは罪の意識にさいなまれ続ける。
印象的なシーンがある。ここからは少しネタバレになってしまうかもしれないので、気になる方は作品鑑賞後に読んでほしい。
それは、原爆完成直後の演説シーン。割れんばかりの拍手で迎えられたオッペンハイマーの耳から、実験成功時の原爆の“音”が消えない。あの瞬間の大気の震えが収まらない。そして、目の前の聴衆が白飛びし、ある若者の顔がただれて見える。原爆を落とされたらどうなるか、オッペンハイマーの頭の中にあるイメージが現実に投影されるのだ。そして、オッペンハイマーは足元に違和感を覚える。何かを踏んでしまった気がして目をやると、そこに黒焦げの死体がある。
確かに、本作に広島・長崎の直接的な描写はないかもしれない。でも、この一連の場面を観たときの僕は——なんといえばいいのだろう——心に激痛が走り悲鳴を上げたような状態になり、瞬間的に涙が出て動悸がおかしくなってしまった。それが全てだとも感じる。自分がある種「目をそらさないでほしい」と祈っていた“痛み”は、多からずそこにはあった。少なくともあの瞬間の僕には、そう思えた。
観賞後、被爆した若者を演じているのがノーラン監督の娘さんだと知った。これはうがった見方かもしれないが、家族が演じることに意味があると考えたがためのキャスティングだったはずで、「咎(とが)を背負う」という意志を僕は勝手に受け取った。
ここまで記したのは、僕という人間が『オッペンハイマー』を観てどう感じたか、その断片的な開示だ。この他にも胸をよぎったものは大量にあるし、「偏愛」かと自らに問うたとき明確な答えはまだ出ない。装苑読者の皆さんに紹介したいという想いと同時に、観るかどうかに対する判断の責任を自分が負えるのか?とも感じる。何とも情けなく、いまだ混乱の渦中だが——ただ、書かずにはいられなかった。
『オッペンハイマー』
第二次世界大戦下、アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクトがあった。「マンハッタン計画」というそのプロジェクトには、J・ロバート・オッペンハイマーと彼が率いる優秀な科学者たちが参加。見事に、世界初となる原子爆弾の開発に成功する。しかし、原爆が実戦で投下——。その惨状を知ったオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。世界の運命を握ったオッペンハイマーの生涯を、『インターステラー』『TENET テネット』などのクリストファー・ノーランが映画化。第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞など最多7部門を受賞した2024年公開の注目作。
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画 R15
WEB:oppenheimermovie.jp
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