劇場上映中&これから劇場上映となる映画から、映画のプロが選んだ偏愛作品を、
その愛するポイントとともに熱くお伝えします!
recommendation & text : SYO
映画をメインとする物書き。1987年生まれ。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクションや映画情報サイト勤務を経て独立。
インタビューやレビュー、オフィシャルライターほか、映画にまつわる執筆を幅広く手がける。2023年公開の映画『ヴィレッジ』をはじめ藤井道人監督の作品に特別協力。「装苑」「CREA」「WOWOW」等で連載中。
X(Twitter):@syocinema
10年前、2013年に劇場で観た映画。『ゼロ・グラビティ』『横道世之介』『そして父になる』などだが、その多くをいまだに思い出せる。ハマる/ハマらないはあれど、あのとき感じたことが経年劣化せずに保存されている感覚だ。いまはどうだろうか。映画を観たそばから「気持ち」が風化し始めて、慌てて密閉するような日々を過ごしている。忘却に対する抵抗――あの頃必要なかったことを、近年は意識的にせねばならなくなってしまった。
僕が映画業界に入ったのは2012年の秋だから、立場は変わったものの「趣味を仕事にしたから」の影響はメインではない。作品数の増加や動画配信サービスの台頭によって供給過多&一つひとつの作品に対するありがたみが薄れてしまい、早回しの環境にアジャストしていくなかで「忘れて、入れる」体質にならざるを得なくなったのだと思う。それは僕に限った話ではなく、いまを生きる多くの人々が作品との付き合いを軽量化しているのではないか。
ただこのところ、そうしたファストな動きにも変化が生まれつつあるように感じる。そのキーワードは“豊かさ”だ。早回しの生活に対する疲弊からスローライフを求めるようになり、作品を総取りしていくのではなく取捨選択して気に入ったものと長く歩んでゆく――恐らくこうした変化に応じて今後、供給のバランスは減っていく(競争が激しくなるためそうせざるを得ない)はずで、いち観客としては平穏の兆しを感じつつ、いち作り手としては不安や危機感が強まっている今日この頃だ。
映画はこの先、どこにゆくのだろうか? そのヒントになりそうな傑作を、今回は紹介したい。5月12日公開の『TAR/ター』。ケイト・ブランシェット演じる世界的な指揮者の複雑な内面と多忙な日々に生じる変化を描いた作品だ。
僕が本作と相対し、「凄い映画を観てしまった……」と放心したのは2月末のこと。日本時間3月13日に開催された第95回アカデミー賞にノミネートされていたこともあって、関連した仕事のために早めの観賞が叶ったのだ。それ以前から『TAR/ター』には注目していて、まずもってポスターがハイセンス、予告もカッコよくケイト・ブランシェット主演と来たらこれは観たいぞ……となっていた。僕より上の世代の映画好きにおいては『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』のトッド・フィールド監督、16年ぶりの監督作!というのもあるだろう。
本作の凄さは数え切れないほど多いのだが、まず一つ伝えたいのは「いま」という時代の空気感を恐るべき高解像度で描いていること。しかも、意外な方法で。それは「クラシックの場からリアルタイムな社会を照射する」というものだ。
主人公の指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、音楽業界を代表する女性指揮者で、レズビアンで、権力者。才能にあふれ、努力も惜しまず、強迫観念と闘い、しかしアシスタントや恋人、かつての教え子といった周囲の人物に対して自分の地位を利用した横暴な振る舞いもする。物語は、栄華を極めたターの“帝国”がある事件を発端に崩れていくさまを残酷に見つめていくのだが、そこには「ジェンダーバイアス」「差別と偏見」「芸術家の横暴」「フェイクニュース」「炎上」「告発」「やり直しを認めない社会」といったテーマが無数にちりばめられている。僕は初観賞時、勝手に「クラシックテイストな作品かな?」という先入観を持っていたのだが、「こんなに“いま”を描きまくるのか!」と大いに驚かされた。
本作は序盤に講演会のシーンがあるのだが、そこでは「女性指揮者の少なさ」を切り口にジェンダーの討論ががっつり展開されている。何かをにおわせたり婉曲するのではなく、「芸術家をジェンダーでみる危うさ」や「コロナ禍で音楽界が被った打撃」「“言葉”がいかにセンシティブなものになったか」等々の話題に対し、ダイレクトなやり取りが続いていくのだ。知識層による小難しい対話が繰り広げられるのではなく、実にわかりやすくそれでいて書き手の勇気と覚悟――テーマに対する誠実さを感じられる真正面からの言葉の応酬は、内容とは裏腹に爽快感すらある。
この講演会のシーンで交わされる内容は後々のシーンにもリンクしていて、そのひとつがターが音楽院で学生たちに授業を行うシーン。「白人の男性作曲家は好みじゃない」と主張する新入生に対して彼女は「もしバッハの才能が、性別や出身国で格下げされるようならあなたも同様」と切り返すのだが、ここにも重要な問題が潜んでいる。作家性ではなく属性で作品を見る傾向についてだ。このシーンでは「魂がSNSで形作られている」という名言も飛び出すのだが、観賞前に作品や作り手の情報を仕入れすぎてイメージにバイアスがかかった状態になってしまいがちな現代の“病”が、授業風景の中で克明に描かれる。しかも長回しの撮影手法を取っており、“いま感”が非常に強い。
これは私見になるが、僕は「見る眼」というものは知識と感性の融合であり、その割合は1:9くらいで良いと思っている。自身の感性で作品を受け止めることが豊かさであり、そうした個々の集合体が社会全体のアートリテラシーへと繋がっていくように思うからだ。知識はあくまでその補完・誘発剤であろう。しかしいまや、そのバランスが逆転しているように感じることも少なくない。そのため『TAR/ター』を観賞中に「わかる!」と大いに頷きまくったし、もし敷居が高い作品だと感じている方がいればフラットに観賞してみてほしいなと思うのだ。
しかも本作は上から目線の説教くさいものではない。例えばSNSの使い方にしても「本質ではなく、こういう主張をしたいがためのアイテムとして使っているな」と作為を感じると冷めてしまうのだが(マスコミを悪玉、ユーチューバーを迷惑系に描きがちな点などもそう)、『TAR/ター』はSNSの使い方も風刺はきかせているものの現実と見事に合致していて、ノイズを感じるところがない。“いま”の描き方、映し出し方が実に的確なのだ。
その現代性は主人公ターの人物像にも生かされる。先に述べたように作り手が晒されるバイアスに対してNOと言うような人物でありながら、彼女自身がマイナスイメージを強める行動を無意識的に起こしているという自己矛盾を抱えている。アシスタントをアゴで使いながら周囲を従わせ、自分の意のままに動かそうとし、陰では教え子の進路を妨害する“排除”も行う。最高の表現を目指すために孤高になっていくのは自然な流れといえるのかもしれないが、『TAR/ター』ではそこに嫉妬や恋慕といった個人的な感情が入り込み、なかなかに闇深い。そもそもター自身、コンサートマスターを務めるオーケストラの一員が恋人であり、一つ間違えれば問題に発展しそうな危うい関係性で仕事を行っている。ある種のドロドロ恋愛劇の要素も内包しているのだ。
「差別をしては駄目」と言う人間が「選別」を行っているシニカルさ。それでいて異音に悩まされて眠れなかったり、現実と妄想の境が曖昧になって精神のバランスを崩していく表現者の苦しみも細やかに描く本作は、実に多層的で奥深い。
作品の構造にも注目したい。『TAR/ター』はエンドロール的なスタッフ・キャストのクレジット映像から始まるという仕掛けが施されている。クレジットのダイジェスト版を冒頭に入れるのはよくある手法だが、『TAR/ター』はしっかり全てのクレジットが最初に流れ、これを観ないことには本編へ進めない。フィールド監督が狙ったかは定かではないが、「エンドロールで席を立つ問題」に対する解答のようではないか。ちなみに本編の尺は158分で、しっかりボリュームがある。これもファストを尊ぶ流れの“逆”であり、その先に見えてきた映画ならではの“贅沢さ”、“豊かさ”につながると考えると、いまの気分を確実に捉えている(映像センスや音の使い方も絶妙で、本作は間違いなく劇場向けの作品だ)。
そして、ラストシーンが衝撃的。これはぜひ作品を観て打ちのめされてほしいのだが、詳細は伝えないものの話したくなる(そこへの演出的な伏線の張り方も絶妙な)作品であり、周囲に伝播する“熱”をも担保してくれる点が心憎い。自分のLINEの履歴を遡ってみると本作を観賞直後に妻と友人に「TARヤバかった」と連絡しており、ここ数カ月は現場でオススメ映画を聞かれると「『ザ・ホエール』と『TAR/ター』です」と答えていた。
今日までその熱は続いており、クラシックに見せかけてリアルタイムというギャップ然り、冒頭に述べた「忘れてしまう」心配も皆無。この先も2023年の思い出の映画として僕の中にこの作品は生き続けるだろう。装苑読者の皆さんが『TAR/ター』とどんな化学変化を起こすのか、ぜひ教えてほしい。
『TAR/ター』
世界最高峰のオーケストラの一つであるドイツのベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ター。彼女は天才的な能力とそれを上回る努力、類稀なるプロデュース力で、自身を輝けるブランドとして作り上げることに成功する。今や作曲家としても、圧倒的な地位を手にしたターだったが、マーラーの交響曲第5番の演奏と録⾳のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんな時に、かつてターが指導した若⼿指揮者の死から、彼女の完璧な世界が少しずつ崩れ始める。
監督・脚本・製作:トッド・フィールド
出演:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ジュリアン・グローヴァ―、マーク・ストロング
東京の「TOHOシネマズ日比谷」ほかにて全国公開中。ギャガ配給。© 2022 FOCUS FEATURES LLC.
WEB : https://gaga.ne.jp/TAR
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