劇場上映中&これから劇場上映となる映画から、映画のプロが選んだ偏愛作品を、
その愛するポイントとともに熱くお伝えします!
recommendation & text : SYO
映画をメインとする物書き。1987年生まれ。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクションや映画情報サイト勤務を経て独立。
インタビューやレビュー、オフィシャルライターほか、映画にまつわる執筆を幅広く手がける。2023年公開の映画『ヴィレッジ』をはじめ藤井道人監督の作品に特別協力。「装苑」「CREA」「WOWOW」等で連載中。
X(Twitter):@syocinema
いつからか、物事の捉え方が単純ではなくなった。いや、「いられなくなった」と言う方が正しい。それは自分の年齢だけではなく、変化する時代に呼応したものだろう。単純なのが良かった……というわけでもなければ複雑化したことを歓迎しきっているわけでもなく、どちらの側につくこともできず、寄る辺ない感覚だけが続いている。そして不安と、疲弊が消えない。
例えば「暴力」という言葉に対する意識も自分の中で大きく変わった。あるタイミングまでは自分の世界からは遠いショッキングな存在だったが、いまでは誰か/何かを傷つけてしまったらそれはもう暴力と称されるものだとも感じている。言葉で誰かを不快にさせたら放った方に悪意がなくともそれは暴力だし、その定義でいうと僕が生業としている「ものを書く」行為は、受け取った方の心に何かを起こす可能性がある以上、暴力性を常に宿している。そんなことをぐるぐると考えながら生きていたら当然疲れるし、「気遣い」を他者にも求めてしまうぶん傷つきやすくもなった。しかも、一度そうなってしまったらもう戻れない。自己/他者の受け取り方/受け取られ方に対する恐ろしさ――その要素を裁判劇という物語構造に見事に組み込んでいた『落下の解剖学』(公開中)を、今回は紹介しよう。
雪深い山荘で、住人の男性が転落死した。事故か、自殺か、他殺か。唯一の証人は、その場に居合わせていた彼の息子だが、過去に遭った事故の影響で視覚障がいを患っており、そもそも家族であるためバイアスがかかる以上、その証言の信憑性は怪しいところ。そんななか、作家である妻に殺人容疑がかかり、裁判へともつれ込んでいく――。
2023年・第76回カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールに輝き、第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、編集賞の5部門にノミネートされた注目作。僕自身も「この作品の中に、他では得られない何かがあるに違いない」と期待しながら観て、観賞後は何とも言えない虚無感に襲われて、「この映画の凄さとは何だったのだろう」と考えて――自分の中で出た答えが、先に述べた「自己/他者の受け取り方/受け取られ方」だった。
『落下の解剖学』は芥川龍之介の傑作小説「藪の中」と、その要素を入れ込んだ黒澤明の名作『羅生門』にちなみ、「藪の中/羅生門方式」と呼ばれる「人の数だけ真実があり、各々が食い違う」状態を描いた作品である。観ている側からすると「事故なの? 自殺なの? 殺人なの?」と興味を掻き立てられる設定の上手さ、夫婦の秘密が次々と明かされていき、そのたびに観ている僕らの印象が変化するテクニカルな展開も用意されている(アカデミー賞脚本賞にノミネートされているのも納得だ)。妻を演じたザンドラ・ヒューラーの隙を見せない/観客の感情を過度に誘導しない演技も素晴らしい。つまり、ミステリー/サスペンスとしての面白さは、十二分に担保されている。ただ、本作の真骨頂はその奥にあると僕は感じた。
劇中、特に印象に残った部分がある。有名作家が容疑者となった事件の裁判が進むにつれ、傍聴席の人数がどんどん減っていくのだ。これはつまり、外野がこの案件に興味をなくしたということ。他人の人生の一大事をエンタメとして消費する残酷な真実が、これ見よがしな演出を排してさらりと描かれていることが、恐ろしくて仕方がなかった。そして、はたと気づいた。自分もそうではなかったか?と。僕自身、この『落下の解剖学』で描かれる物語に興味を抱いたとき、そこに何らかの嗜虐性がなかったと言えば嘘になる。中盤から終盤にかけての焦れるような展開に「まだまだ裁判が続くのか」と思ったりもした。傍聴席に悠々と座り、「面白くなくなったら帰ろう」と値踏みする醜悪な人々と、なにも違わない。本作を通して、偉そうに「日々他者を気遣ってますよ」と思っている自分のどうしようもない加害性を知ってしまった気がした。
事件のシーンとセットで描かれるのは、証人たちが「こうに違いない(この女が犯人だ!)」という前提の下で物事を見ているということ。かれらが“証拠”に挙げるものには明確なバイアスがかかっていて、とはいえ妻の弁護人は古くからの知り合いで、何なら彼女へ好意も抱いており、こちらもフラットな存在ではない。さらに言語の壁も入り込み(妻の母語でないため細やかなニュアンスが伝わりづらい)、様々な形でコミュニケーションが阻害されていく。事実はその場にいない他者にはわからないし、真実は人によって姿を変えるもの。結局我々は、見たいようにしか見ていないし、悪意なく他者を食い物にしてしまう自身の内なる暴力性から逃れられないのではないか――。
本作は、どこまでも冷静に引いた目線を貫き、身勝手にヒートアップしては冷めていく我々の“正体”を突きつける。ひょっとしたらそれこそが、唯一無二の絶対的な真実なのかもしれない。時代が移ろおうとも、人間の本質は変わっていないのだ。
『落下の解剖学』
人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。はじめは事故と思われたが、次第に、ベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。現場に居合わせたのは、視覚障がいを持った11歳の息子だけ。裁判が進み、証人や検事によって夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ真実が現れ出す。2024年2月に発表された第49回セザール賞で、作品賞を含む6部門を受賞。
監督:ジュスティーヌ・トリエ
脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ
出演:ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、アントワーヌ・レナルツ全国公開中。ギャガ配給。
©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma
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