藤原季節インタビュー。
「宝物のような映画」、『東京ランドマーク』のかけがえのない記憶について。“居場所を作る”とは?

俳優の柾賢志毎熊克哉佐藤考哲、映画監督の林知亜季による映像制作ユニット「Engawa Films Project」が初めて手がけた長編映画が『東京ランドマーク』だ。藤原季節さんが主演を務め、メンバーの林さんが監督・脚本を担当。藤原さんが25歳だった2018年に撮影され、5年をかけて2023年に完成、初公開に漕ぎつけた本作は、その後、『his』『佐々木、イン、マイマイン』などで頭角を表す藤原さんの初主演作だ。ドキュメンタリー作品も撮っていた林さんは、映画の脚本に藤原さんと親友の義山真司さんの関係性を盛り込み、それでいて誰しもが持ち得る大切な記憶についての物語を作り上げた。

そんな本作が、映画に関わる人々の思いや動きによって、2024年5月18日(土)に劇場公開を迎える。劇場公開を控え、上映会が開催された5月2日に、藤原さんにインタビュー。本作についての大切な記憶を語っていただきました。

photographs : Jun Tsuchiya (B.P.B.) / styling : Hiroaki Iriyama / interview & text : SO-EN

10年、仲間って変わらなかった。

藤原季節(以下、藤原):5年間、自分の心の中にずっと『東京ランドマーク』の存在があったかといえば、実際、そうではありませんでした。けれど5年経って公開を迎え、みんなで大阪や名古屋にも舞台挨拶に行き、一緒にご飯を食べたり仕事を超えた時間があったことで「あの時、この映画を作って本当に良かったな」と思えました。この映画を作ったことで、僕らは、みんながまた集まれる場所や時間を手に入れたんだな、と。

そう思うと、自分の5年間をずっとこの映画が支えてくれたとは言わないけど、少なくとも今は、小さな心の支えになっていると思います。だから誰かにとっても、この映画が大きな支えにはならなくても、小さな支えの一つくらいになればいいなという気持ちでいます。

藤原:はい。役者の世界に入って最初に僕は小劇場で演劇をしていて、そこで毎熊克哉さんに出会い、『ケンとカズ』(監督:小路紘史、’16年)という映画に誘われて出演し、その頃に事務所のオーディションにも受かるという流れがありました。毎熊さんも義山真司も同じ小劇場の舞台に立っていたので、僕の役者人生は二人と一緒に始まったと言ってもいいくらい。それが今、10年以上経って、ふと自分の隣を見たら、立っているのは毎熊さんと真司。あぁ10年、仲間って変わらなかったんだなと思いました。今は「自分の居場所はちゃんとここにあったんだ」という気持ちです。

藤原:そうです。みんなネットで同じ舞台のオーディションに応募したことで、たまたま出会っていて。Engawa Films Project(以下、Engawa)が立ち上がったのも、その舞台の、前の公演がきっかけなんですよ。だから最初はみんな小劇場で出会っています。その後、各々バラバラになっても、10年経ったらまた一周して戻ってきた。運命って面白いです。

藤原:将来、 大きな柱になっていくのかもしれないですね。自分たちで映画を作ったという記憶が、未来の自分を支えるのかもしれないなと思います。

林さんが、『東京ランドマーク』という映画を通して家族や親友に向き合う時間を作ってくださったんです。

藤原:覚えています。ちょうど、映画『止められるか、俺たちを』を撮影した直後で、井浦新さんという強烈な存在に出会い、新さんの言葉や、新さんが演じた若松孝二監督の言葉が、自分の中で反響している最中だったんです。ガンガンガンガンってピンボールみたいに。僕たちが演じた若松プロの方々は、世界で起きた出来事に対し、映画を通して主張をぶつけるということをしていた人たち。だから、今の自分にできることはやっぱり映画を作ることなんだと思ったんですよね。これは熱いうちに叩かないと冷めるぞ、という予感があったので、止まることはできなかったというのが当時の心境でした。

そんな時だったので、毎熊さんの助言をうまく聞くことも難しかったんです。だからまたEngawaの人たちと映画作りができた時は、もうちょっとみんなで話し合って進めたいなっていうのは、今になって思うことです。

藤原:25歳の自分にしか出せないスピード感と熱でしたね。今は無理です(笑)。

藤原:そう思いますね。自分は19歳の時に両親が離婚して、当時、家族というものとの向き合い方がよくわからなくなっていたんです。家族とどうしたらいいのか、という悶々とした気持ちを抱えると同時に、親友の真司が引きこもり状態だったというのもあって、どうしたら真司が社会復帰してくれるんだろうとも思っていました。その気持ちを、素直に林さん(監督)に相談したんですよね。

それで、『東京ランドマーク』という映画を通して家族や親友に向き合う時間を、林さんが作ってくださったんです。フィクションを交えながらも、真司になんとか働いてもらいたいなとか、家族とどう向き合ったらいいかなど、この映画を撮りながら考えていました。

藤原:全部がリアルというわけではなく、結構フィクションの要素があるのですが、実際、父親との向き合い方が当時難しかったというのもあって、あの映画を通して考えたことはありました。僕の父は、今は九州でお坊さんをしています。映画を撮った直後にすべてのモヤモヤが解決したというわけではないのですが、あれから5年経って、少しずつ家族との関係がうまくいきはじめて。やっぱり『東京ランドマーク』の影響がゼロだとは言えないですよね。

藤原:そうなんです。それをきっかけに働き始め、今も同じ会社に勤めています。

藤原:ひょっとしたら自主映画を作る人の多くは、いちばん初めに初期衝動として、自分の悩みを作中に盛り込むのかもしれないですね。そのみずみずしさは、社会を経験する間に消えていってしまうものでもあります。「あの時、自分は本当は何に悩んでたんだっけ?」って。そういうことってどんどん忘れていっちゃうものでもあるので、その時に作るのは結構大事なのかもしれないなと、今、思いました。

あの時、寂しかったことを映画にすることで、誰かと思いを共有したり分かち合ったりすることができるんじゃないか。

藤原:当時の自分が映っていると思います。今、言ってくださった夜のほうが似合うという話もわかるなって。夜になると体が元気になる時期ってありませんか? 昼間、どうしても布団から出られなくて……みたいな。そういうこと、僕はこれまでの人生において多かったんですよね。朝が来ると眠れるようなこと。だから、稔にもそういうところがあったのかもしれないと、ふと感じました。

藤原:今、住んでいる方がいらっしゃったら申し訳ないので少し言いづらいのですが、僕の部屋でした。

藤原:リセッシュの位置はリアルなのですが、台所のパスタは、参加してくれた美術スタッフの案です。稔は実家からパスタがいっぱい送られてくるからっていうので、あの小道具を考えてくれました。ペットボトルを傾けると、ちょうど1人前、100グラムくらいが出てくるということらしいです(笑)。そして、その美術の沼澤菜美さんが、今、僕の朗読の衣装を作ってくれているんですよ。

藤原:はい。だからそこもずっと続いている縁です。沼澤さんも10年くらい前に、真司と一緒に出会っています。沼澤さんが通っていた美大の学祭で作るミュージカルのお手伝いを真司と一緒にしていたのがきっかけで、『東京ランドマーク』っていう映画があるから、よかったら美術と衣装をやってほしいと言ってお願いして。それで、朗読も、こんなのあるけどやってみる?と言って、どんどんつながっています。自分のチーム編成が変わってない(笑)。

藤原:古着屋で見つけてきてもらったり、自前のものも混ぜました。衣装の一部は、今も私物として着ています。今でもよく、稔の衣装だったちょっと色がついたウールのフード付きのアウターを着ます。

藤原:自分たちの思い出の場所を、記録なり形に残すって、すごいことだなと思います。僕も真司も、当時、お金はないし、誰からも相手にされていないから寂しかった。だから、ずっと多摩で遊んでいたんですよね。本当にあの映画の感じで、家でダラダラしたり、お酒を飲んだり、銭湯に行ったりっていうのをしていて。一人でよく散歩もしていました。

あの時、寂しかったことを映画にすることで、誰かと思いを共有したり分かち合ったりすることができるんじゃないかなと感じます。本当に自分が寂しく過ごしていた場所を誰かに見てもらうというのは、自主映画にしかできないことでもある。
桜子が佇んでいた夕陽の見える丘は、一人で見つけた場所でした。あのベンチにはよく一人で座っていたので、感慨深いです。

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この後、映画の内容にふれる記述があります