2023年に創立100周年を迎える文化服装学院。その長い歴史の中で、ファッション業界はもちろん、エンターテインメントや芸術、表現の世界に携わる多くの”感性”を育み、輩出してきた。そんな文化の100歳をお祝いして、文化服装学院をめぐる過去と現在、未来をつなぐ連載がスタート。2回目は、文化服装学院を卒業し、ファッションの世界を変革したデザイナーたちの仕事に焦点を当てる。
新井茂晃=文 text: Shigeaki Arai(AFFECTUS)
この記事の主な内容
1. 日本人が世界で勝負する道を作った2大デザイナー(髙田賢三・山本耀司)
2. モードとストリートの寵児の誕生、テキスタイルからのアプローチ(髙橋 盾・皆川 明・NIGO®︎)
3. 技術の先にミックス感覚を研ぎ澄ませたリアルモードの作り手たち(阿部潤一・落合宏理・熊切秀典)
4. 真摯なものづくりと感性が結びつき、強度のある服を作り出す(宮前義之・岩井良太・森川拓野)
1970 → ’80s
日本人が世界で勝負する道を作った2大デザイナー
髙田賢三 山本耀司
モード史の偉人、髙田賢三*と山本耀司*には、共通して恩師である小池千枝*の教えが息づく。
1970年代、渋谷や原宿に誕生したファッションビルは数多くのスタイルを発信し、若者たちを虜にする。知的でカジュアルなアメリカンスタイル、日本産トラッドのハマトラとニュートラ、自由で放浪的なヒッピーなど、当時の日本は現代に勝るとも劣らない多様な服であふれていた。
そんな時代が日本で花開こうとする1970年、遠く離れたパリで、デザイン科在学中に装苑賞を受賞した髙田が「ジャングル・ジャップ」をオープンする。
*KENZO(ケンゾー)。1961年に文化服装学院デザイン科(現・アパレルデザイン科)を卒業した髙田賢三が、ʼ70年、パリにオープンした店「ジャングル・ジャップ」からスタート。髙田賢三はʼ99年に同ブランドを引退。
*YOHJI YAMAMOTO(ヨウジヤマモト)。1969年に文化服装学院デザイン科を卒業した山本耀司が、ʼ72年にワイズを設立。1981-ʼ82年秋冬、パリでヨウジヤマモトとしてコレクションを発表し、以来、パリ・コレクションに参加を続ける。
*小池千枝 1916‒2014年。文化裁縫女学校(現・文化服装学院)研究科卒業。文化服装学院10代目学院長。’54年に渡仏し、立体裁断を学ぶ。生体観測と人間工学の研究による服装教育を導入した一方で個性重視のデザイナー養成を行った、「日本モード界の母」。
(右)ヨウジヤマモト ʼ84‒ʼ85年秋冬。重量のあるビッグシルエットの無彩色の服がʼ80年代のヨウジヤマモトらしい。パリ・メンズコレクションに初参加したシーズンでもある。(左)ケンゾー ʼ70年4月に開店したパリのケンゾーの店「ジャングル・ジャップ」での写真。右が髙田賢三で、左のモデルが着ているのは、男性用の羽織の裏地を使って仕立てたミディ丈のコートとスカート
1973‒ʼ74年秋冬の「ルーマニア・ルック」、1975年春夏の「東洋のペザント・ルック」で画期的だったのは、それまでの西洋の服とは違うゆとりのオーバーサイズシルエットだ。小池から学んだ本場パリの立体裁断と日本伝統の着物の構造を熟知し、立体と平面の両方を行き来できる髙田だからこそ実現し得た、未来のシルエットである。
ʼ73‒ʼ74年秋冬。髙田賢三自身がお気に入りにあげていた「ルーマニア・ルック」。
当時、パリでは富裕層のために最高級の素材で作るオートクチュールがまだ主流だった。だが、1970年代当時の髙田は、庶民が行く市場で手に入れた木綿や古布などの廉価な生地を工夫して使い、新時代のファッションを大衆に開放する。「チャイニーズ・ルック」(1975‒ʼ76年秋冬)、「アフリカン・ルック」(1976年春夏)と架空のフォークロアスタイルで新たな美を創造し、さながら銅から金を錬成する錬金術師のよう。モードの都パリで、髙田はプレタポルテ時代の寵児となる。
1980年代の日本には、全身を黒い服で覆い尽くす、カラス族と呼ばれる集団が現れた。その人々の源流は、デザイン科で学び、装苑賞を受賞した山本耀司と、川久保玲にたどり着く。そして山本の中には、髙田と同様に小池から学んだ立体裁断の技術と精神が秘められていた。
ʼ83年春夏パリ・コレクション。このコレクションが、川久保玲のコム デ ギャルソンとともに世界的センセーションを巻き起こす。インスピレーション源はインド。手織りのインド麻や、パッチワークのインド綿を多用したビッグシルエットの服を発表。カットワークでレースのように見せた写真の一連のルックが有名。
1980年代は、ティエリー・ミュグレーやクロード・モンタナが打ち出した、色彩豊かで肩パッドを用いた、逆三角形シルエットの服が主流だった。だが、それは山本の目指す服ではない。山本は、女性に体の自由をもたらす解放的なシルエットを才気あふれるカッティングで作り出し、西洋伝統の女性像とは異なる、自分の力で生きる女性のための服を形にした。
ところどころに穴があく黒い生地と、左右非対称で形作られた「黒の衝撃」は当時「ボロルック」や「貧者モード」と呼ばれ、女性を飾り物や男性の所有物のように華やかに見せる服とは異なった新しいエレガンスを生む。
新時代を切り拓いたマエストロたちの手には、技術という服作りの原点が宿っていた。
主な文化服装学院出身デザイナー(一部抜粋 ほか多数)
•コシノヒロコ •コシノジュンコ •金子 功(ピンクハウス) •松田光弘(ニコル) •前田徳子(トクコ プルミエヴォル) •熊谷登喜夫 •田山淳朗 •津森千里
1990s
モードとストリートの寵児の誕生、
テキスタイルからのアプローチ
高橋 盾 NIGO® 皆川 明
1990年代は、新しいスタイルの発信源としてストリートの影響力が高まった。渋谷に集まる女子高生たちは、学校の制服という画一的な服に個性を生み出し、コギャルと呼ばれる時代の寵児となった。
同じ頃、ストリートの聖地「裏原」が誕生する。表参道の裏手に「ノーウェア」をオープンし、裏原の中心人物となったのが、文化服装学院で出会った高橋盾とNIGO®だった。
ʼ94‒ʼ95年秋冬東京のデビューコレクション。
高橋は当初からファッションデザイナー志望で、アパレルデザイン科を卒業。在学中にアンダーカバー*を立ち上げ、1994‒ʼ95年秋冬に東京コレクションでデビューする。特徴的なのは、1998‒ʼ99年秋冬「EXCHANGE」。
*UNDERCOVER(アンダーカバー)。1991年に文化服装学院アパレルデザイン科を卒業した高橋盾がデザイナー。在学中のʼ90年に、一之瀬弘法とブランドをスタート。
タートルネックニットやジーンズというベーシックウエアで構成され、一見するとシンプル。しかし、衿・袖・身頃など各アイテムのパーツが解体でき、それぞれが交換できるというギミックがあった。
(左)ʼ99年春夏東京コレクション。(右)ʼ98‒ʼ99年秋冬東京コレクション。
ベーシックに仕掛けを加える手法は、ʼ99年春夏の「RELIEF」にも引き継がれ、ここでは摩擦による色落ちのアタリで、内側に隠したポケットやボタンなどのディテールを表現した。リアルな服でありながら、アヴァンギャルドな迫力を備えたアンダーカバーは、当時の20代を中心に磁場を作り、その後の世代に大きな影響を与えた。
一方、NIGO®は「編集に興味があった」ことから、エディター科(現・ファッション流通科)に入学。編集的視点は、1993年にスタートした自身のブランド、A BATHING APE®*で発揮されることに。
*A BATHING APE®(ア ベイシング エイプ®)1991年に文化服装学院エディター科(現・ファッション流通科)を卒業したNIGO®が、ʼ93年に創業。NIGO®は2013年に同ブランドを退任し、現在はヒューマンメイドとケンゾーのアーティスティックディレクターを務める。
注目したいアイテムが迷彩のスノーボードジャケットだ。迷彩柄とスノーボードジャケットは定番で、特別新しいわけではない。だが、NIGO®は迷彩柄の中に、ブランドの象徴である猿の顔「エイプヘッド」を紛れ込ませたカモフラージュ柄「ベイプカモ」で、王道のカジュアルウエアの見え方を変え、新しさを演出した。これは、素材開発やパターンメイキングから発想する服作りとは異なり、NIGO®は21世紀のデザインアプローチを開発したと言え、ヴァージル・アブローやキム・ジョーンズなど後の世代のスターデザイナーを大いに刺激した。
『装苑』2000年7月号
裏原やモードと別の潮流からは、Ⅱ部服装科出身の皆川明の仕事が際立つ。東京・八王子に居を構えた皆川が、1995年に設立したミナ*(現・ミナ ペルホネン)は、皆川の詩情あふれる絵や言葉を起点に、国内外の生産拠点と協働することで生まれる美しいテキスタイルで人々を魅了する。
*minä perhonen(ミナ ペルホネン)。1989年に文化服装学院Ⅱ部服装科(夜間部)を卒業した皆川 明がʼ95年に設立。ブランド名にある“ミナ”はフィンランド語で「私」、“ペルホネン”は「蝶々」の意味。
例えば、ブランドを代表するテキスタイル「tambourine」(2000‒ʼ01AW)は、刺繍で作られた非常に小さな球形が丸い形につながったものであり、とても小さなパールが連なったネックレスのよう。繊細で素朴な美しさがいつまでも横たわる。皆川によるテキスタイルはインテリアファブリックや、アルテック社やマルニ木工などの家具メーカーとの協業、数々の生活雑貨にも展開されている。また、建築家の中村好文と共に京町家のリノベーションを手がけるなど、皆川の才能はファッションの領域を超えて評価されている。
空前の好景気に沸いた時代は泡と消え、1990年半ばから日本経済には暗い影が差す。しかし、日本のファッション界は、新しい才能が次々と生まれる黄金期だった。
主な文化服装学院出身デザイナー(一部抜粋 ほか多数)
•安部兼章 •若林ケイジ(national standard) •丸山敬太 •一之瀬弘法(ヴァンダライズ) •本間 遊(ホンマ) •宮尾史郎(ミヤオ) •大矢寛朗(オー!ヤ?、アストロボーイ バイ オーヤ) •髙島一精(ネ・ネット)
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