ウィーンを訪れた際には、芸術家集団「ウィーン工房(Wiener Werkstätte)」に強い関心を抱いた。日常生活のあらゆる領域に芸術を取り入れ、工芸とデザインを統合しようとする彼らの理念は、ポワレに深い影響を与えた。こうして、’11年に娘(次女)の名を冠した「マルティーヌ装飾芸術学校」を設立。労働者階級出身の少女たちにも門戸を開き、ラウル・デュフィら芸術家を講師に迎えたこの学校では、自由なデッサンを重視する革新的な教育が行われた。生徒たちの作品は「メゾン・マルティーヌ」の名で商品化され、家具や壁紙、テキスタイルとなって世に送り出された。

「メゾン・マルティーヌ」のアトリエ(1911年〜’20年)。

ポワレのブランドを象徴するバラの刺繍があしらわれた三連屏風(1912年頃)、生地「アネモネ」、娘マルティーヌの夏のドレス(1912年頃)の展示。

コム デ ギャルソン 2013年秋冬コレクション「The Infinity of Tailoring」のスーツ。アトリエ・マルティーヌで制作された壁紙と対話するように並ぶ。いずれも幾何学的な花模様が印象的。
さらに同年、長女の名を冠した「ロジーヌ香水」を創設する。ポワレはドレスと香りの調和こそ真のエレガンスを生むと考え、自ら香水の製造からパッケージデザインまでを監修。第一作「ロジーヌのバラ」に続き、’29年までに30種類以上の香りが発表された。

「ロジーヌ香水」の香水瓶(1912年〜’14年)。

ジョルジュ・ルパップが描いた「ロジーヌ香水」の広告用扇子(1910年)。
こうした国際的な展開と並行して、ポワレは「未知の世界を知りたい」という願望から地中海沿岸の国々へ旅をした。イタリア、スペイン、モロッコ、チュニジア、アルジェリアで目にした景色や工芸は、彼に大きな刺激を与え、服のシルエットや色彩に反映されている。作品にしばしば登場するターバンやサルエルパンツ、贅沢な刺繍は異文化の再解釈とも言えるだろう。


地中海、中東の国々への旅からインスパイアされたポール・ポワレの作品群。各地の伝統的な装飾、民族衣装の要素を取り入れ、独自のスタイルへと昇華させている。

ジャンポール・ゴルチエ 1994年秋冬コレクション「大旅行」のアンサンブル(左)と、クリスチャン・ラクロワによるジャン・パトゥ 1987年春夏オートクチュールの作品。いずれも民族衣装から着想を得ている。


写真左:ドリス・ヴァン・ノッテン 2006年秋冬コレクションより。ウールサージに金糸やスパンコールの刺繍を施した豪奢なコート。右:イッセイ ミヤケ 1979年春夏コレクションより。光沢のあるメタリックな生地を用いた作品。未来的な素材感に東洋的なフォルムが融合する。
ポワレは五人きょうだいの唯一の男の子で、姉妹たちは皆、芸術的な気質を備えていた。とりわけ妹のニコル・グルーは小規模ながらデザイナーとして活動し、画家マリー・ローランサンとの恋愛関係を通じて、その名は当時のパリの芸術界に知られていた。

マリー・ローランサン作、ローランサン(左)とグルーの肖像画「鳩を持つ女たち」(1919年)。
’14年に第一次世界大戦が勃発すると、ポワレも従軍を余儀なくされ、メゾンの活動は停滞した。そして、戦争はファッション界の勢力図を大きく塗り替える。男性に代わって働きに出た女性たちは、彼の豪華なドレスへの関心を失い、動きやすく実用的な装いを求めるようになっていた。時代はガブリエル・シャネルをはじめ、ジャンヌ・ランバンやマドレーヌ・ヴィオネなどの新世代の台頭のときを迎えていたのだ。同時にポワレの地位は次第に揺らぎ始めていた。
’25年のアール・デコ博覧会に合わせ、ポワレはセーヌ川に3艘の船を浮かべた。船には自身のブランドの作品に加え、アトリエ・マルティーヌのインテリアやロジーヌの香水を展示した。さらにはレストランまで併設して、まさに、総合芸術の場を創り上げたのだ。しかし、華やかな演出にもかかわらず、期待された顧客層は集まらなかった。ここから彼は経済的苦境に陥っていく。

セーヌ川に浮かぶ「Amours(愛)」「Orgues(オルガン)」「Délices(悦楽)」と名付けられた3艘の船。内装には、アトリエ・マルティーヌのテキスタイルや工芸品が用いられた。
妻ドニーズとの間に五人の子どもをもうけたが、’28年に別居。経済的困窮だけでなく、ポワレの奔放な性格、浪費癖、女性関係に疲れ果てたことが大きな理由とされている。パートナーであり、ミューズであり、モデルでもあった彼女との距離が遠のくことは、彼の人生と創作に大きな影を落とした。

妻のドニーズのポートレート。美しく、細身で背が高かった彼女は、ポワレの歩く広告塔でもあった。
さらに膨大なアートコレクションも、深刻な経済難から手放さざるを得なくなり、’29年、ついにブランドは閉鎖された。こうして、かつて栄光を極めた「ファッションの王様」は、次第に人々の記憶から遠ざかって行くのだった。
しかしながら、エルザ・スキャパレリは彼をレオナルド・ダ・ヴィンチになぞらえて称賛し、クリスチャン・ディオールはファッションを刷新した偉大な先駆者として讃えた。彼のアイデアや美意識は確かに受け継がれ、作品のみならず、ショーの演出や芸術的広告など、今日のファッション界に息づいている。

左から、イヴ・サンローランによるクリスチャン ディオール 1960年夏春の夜のドレス、クリスチャン ディオール 1948年秋冬のイブニングコート、スキャパレリ 1952年冬のイブニングケープ、スキャパレリ 1952年冬のイブニングドレス。



写真左:髙田賢三によるケンゾー ジャップ 1970年秋冬のアンサンブル。右:ジョン・ガリアーノによるクリスチャン ディオール 1998年春夏のアンサンブル。

メゾン マルタン マルジェラ 1989年秋冬の作品は、陶器のサンペンダーがポワレの革新性を想起させる。
ポール・ポワレ、ファッションは祝祭
Paul Poiret, La mode est une fête
パリ装飾芸術美術館( Musée des Arts Décoratifs)
2026年1月11日まで
Musée des Arts Décoratifs : オフィシャルサイト
Photos & Text : Chieko HAMA