
1923年〜1925年代のポワレの作品。中央の写真は「釘のひげ」の仮面をかぶったポワレの前衛的ポートレート(撮影:エルヴィン・ブルーメンフェルト)。
20世紀初頭のパリで、現代的なファッションビジネスを先取りしていた革新者、ポール・ポワレ(Paul Poiret / 1879‑1944)。その大回顧展「ポール・ポワレ、 ファッションは祝祭(Paul Poiret, La mode est une fête)」が、パリの装飾芸術美術館で開催されている。
展示されているのは、衣装をはじめ、デッサン、家具、香水など約550点。女性をコルセットから解放したデザイン革命、ファッションを軸としたライフスタイルの提案、そして、当時では斬新だった広報戦略など、多彩な活動を紹介しつつ、その人生が語られている。また、現代のブランドへ受け継がれるポワレの遺産を示す作品展示も見どころだ。

19世紀後半から20世紀初頭に活躍したシャルル・フレデリック・ウォルトの作品(左 / 1895年ごろ)とジャック・ドゥーセの作品(右から2番目 / 1900年初頭)。これらのドレスはコルセットで腰を締め上げて着用していた。
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1879年にパリで生まれたポール・ポワレは、10年後に開催されたパリ万国博覧会で、世界各国の珍しい品々に魅了された。なかでも彼の心を捉えたのはオリエンタリズムであった。幼い頃から絵の才能に恵まれていたポワレは、デザイン画を描いては仕立て屋に売り、評判を得ていたという。当時はデザイン画をもとに服が仕立てられていたからだ。やがて、ファッションとアートの双方に影響を与えていたデザイナー、ジャック・ドゥーセとの出会いが、彼のフランス社交界への扉を開くことになる。
1903年に自らのブランドを設立したポワレは、初コレクションから高い評価を得た。中でも’06年に発表したコルセットのないハイウエストのドレスは、新時代の幕開けを告げるものと称され、ファッション史における「身体の解放」という大きな転換点として記憶される。

女性をコルセットから解放したポワレのドレス(1907年)。

1908年刊行のポール・イリブ作の版画本「ポワレのドレス」。19世紀のコルセットで縛られたシルエット(左奥)と、ポワレのゆったりとした直線的なラインを対比させ、モードにおける新しい美学の到来を示した。
’05年、時代は「フォーヴィスム(野獣派)」と呼ばれる色彩の暴力的で大胆な表現が特徴の芸術運動へと入っていった。ポワレはいち早くこの流れを取り入れ、運動の中心人物であったラウル・デュフィと協働し、色鮮やかなプリント生地を制作した。さらに運動の主要メンバーのモーリス・ド・ヴラマンクが手がけた陶器のボタンを用い、時代を先取りする試みとして注目を集めた。また、前衛写真家ジェルメーヌ・クルルに広報写真を依頼。ビジネスと芸術性を融合させたイメージを次々と打ち出し、ファッションとアートの結びつきを鮮明に提示していく。

モーリス・ド・ヴラマンクの陶器のボタン(1910年頃)。

カール・ラガーフェルドによるクロエのドレス(1971年)。鮮やかな幾何学的モチーフは画家クリムトの作品から着想されたもので、前衛芸術の装飾性をファッションで示したポワレと共鳴している。

1910年代から’20年代にかけて、デュフィとともに制作した作品。ファッションにアート感覚を取り入れた作品は、東洋的趣味と鮮やかな色彩であふれていた。中央の屏風は「パノラマ・ド・パリ」(1933年)。華やかなパリの風景が描かれている。

デュフィのプリントを使ったドレス「モザイク」(1910年頃)。
’09年、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)がパリでセンセーションを巻き起こした。音楽・美術・衣装・振付を融合させた革新的な舞台は、東洋趣味の豊かな色彩やニジンスキーらの力強い踊りとともに観客を熱狂させ、芸術界とファッション界を揺さぶった。ポワレもその芸術性に魅了され、やがて同団に関わったナタリア・ゴンチャロワの衣装を手がける。さらに女優スピネリのためのドレスも制作するなど、舞台とファッションの垣根を超える活動を展開していった。

1921年のゴンチャロワの舞踏衣装(中央)と1910年代〜’20年代のポワレの作品。舞台芸術とファッションが交差した時代、ポワレはバレエ・リュスや演劇と密接に活動していた。華麗な素材と装飾、舞台衣装のような色彩は、彼がファッションを「総合芸術」と捉えていたことを表している。

バレエ・リュスのプログラム(1910年〜’12年)。
’10年、バレエ・リュスによる『シェヘラザード(千夜一夜物語)』の公演は、パリにペルシャ趣味の流行をもたらした。翌年、ポワレは自邸で「千夜ニ夜」と題した壮麗な宴を催す。この宴では、自らスルタン(王)に扮し、妻デニーズはハーレムの女性たちとともに登場。300人もの招待客を驚嘆させ、ポワレの名声をさらに高めることになった。一方で、このような豪奢な宴は莫大な費用を伴い、のちの経済的困難を招く一因となったという。

「千夜ニ夜」の壮麗な宴の写真。

ポワレが着用したスルタンの衣装(左)と妻のデニーズの衣装(1911年)。
「千夜ニ夜」の華やかな宴で名声を確立したポワレは、その勢いを海外へと広げていく。販路を広げるため、妻と9人のモデルを伴ってヨーロッパ各地の首都を巡回したのだ。訪問先でショーは各国社交界における一大イベントとして注目を集め、大きな宣伝効果をもたらした。さらに旅の途中ではアーティストたちとの交流で刺激を受け、ドレス制作のための生地や刺繍を積極的に収集した。こうしたことが創作の糧となった。
’13年には、アメリカへ渡り、現地を訪れた初のフランス人デザイナーとなった。ニューヨークのメディアは彼を大々的に取り上げ、「ファッションの王様」と称賛。その名は国際的に広まっていった。


1919年〜’25年のポワレの作品と彼のルイ・ヴィトンの旅行鞄。