フランス北西部、ブルターニュ地方の町ランデルノー(Landerneau)で、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 – 1987年2月22日)の大展覧会「ウォーホル(WARHOL)」が開催されています。
展示作品は約200点。そのうち9点を除くすべてがフランス初公開で、ピッツバーグにあるアンディ・ウォーホル美術館の貴重なコレクションを中心に構成されました。

『キャンベル・スープ I(Campbell’s Soup I)』1968年。
会場は、フランスの大手小売グループ「ウ・ルクレール(E.Leclerc)」が運営する文化施設「エレーヌ&エドゥアール・ルクレール文化基金(Fonds Hélène & Édouard Leclerc pour la Culture=FHEL)」。創業者夫妻の名を冠したこの施設は、1949年に「ウ・ルクレール」の第1号店が開業した場所で、当時は食料品や日用品を買い求める人々でにぎわっていました。

旧カプチン会修道院を改修した「エレーヌ&エドゥアール・ルクレール文化基金」。
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現在、この空間には、キャンベル・スープ缶やコカ・コーラ、ブリロ・ボックスなどをモチーフにした作品が並びます。かつて商品が並んでいた店舗跡に、消費社会を題材にした作品が展示されているという対比も、この展覧会をより興味深いものにしています。
また本展では、少年時代の写真、代表作、晩年の自画像などを通して、ウォーホルの生涯と、世界的なアーティストへと歩んだ軌跡をたどります。
では、5つのテーマに沿って会場を観ていきましょう。
1. “アンドリュー・ウォーホラ”から“アンディ・ウォーホル”へ

『自画像(Self-Portrait)』1986年。
最初に来場者を迎えるのは、晩年のウォーホルを描いた大きな自画像です。鮮やかな色彩で描かれながらも、その表情は静かで、どこか厳しさを感じさせます。
その向かいには家族写真や少年時代の写真が並び、展示はウォーホルの幼少期へとさかのぼります。

左から、兄 ジョン(John)、母 ジュリア(Julia)、アンディ(Andy)1932年。
1928年、アメリカのペンシルベニア州ピッツバーグで、後に“アンディ・ウォーホル”と名乗るアンドリュー・ウォーホラが、三兄弟の末っ子として生まれました。両親は、現在のスロバキアにあたる地域からアメリカへ渡った移民でしたが、父は炭鉱や建設関係の仕事に就き、母ジュリアは家庭を支えて暮らしていました。
決して裕福とはいえない環境で育ったウォーホルは、幼い頃にシデナム舞踏病を患い、長期の療養生活を送ることになります。療養中は家でラジオを聴き、ハリウッドスターの写真を集めて過ごしたといいます。また、敬虔なカトリック信者だった母と教会へ通い、宗教画や聖像に親しみながら成長していくのでした。

高校卒業時の写真(1945年)。
絵を描き、刺繍やカリグラフィーを得意とした母と多くの時間を過ごしたことも、創作への関心を育む大きなきっかけとなりました。父もその才能を信じ、自らの死後も大学へ進学できるよう、学費を残していました。そうした家族の支えもあり、カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)でデザインを学ぶことができたのです。
2. 若き日の仕事
大学を卒業した1949年、ウォーホルはニューヨークへ移り、広告イラストレーターとして活動を始めます。やがて母ジュリアも同居し、彼の創作活動に寄り添いました。

『ボンウィットズ・ラブズ(Bonwit’s Loves Replique)』1957年(2017年複製)。
当時の作品は、一般に知られる鮮やかなシルクスクリーンとは大きく異なり、繊細な線と軽やかな色彩が特徴です。料理やデザートを描いた作品は、おとぎ話の挿絵を思わせるような愛らしさがあります。


『ワイルド・ラズベリーズ(Wild Raspberries)』1959年頃。
雑誌や百貨店、靴メーカーなどから次々と仕事を受けたウォーホルは、広告イラストレーターとして高い評価を得ます。写実的に描くのではなく、モチーフを印象的なビジュアルへと変える独自の感性が、多くのクライアントを魅了したのです。

左から、『3人の女性のファッション・フィギュア(Three Female Fashion Figures)』 1950年代、『複数のファッション・アクセサリー(Multiple Fashion Accessories)』1950年代、『5足の靴と3つのハンドバッグ(Five Shoes and Three Purses)』1950年代。

左から、『その他いろいろ(So On and So Forth)』1950年代、『翼のある妖精の顔(Fairy Faces with Wings)』1954年頃。
3. 広告こそアート
続く展示では、コカ・コーラのボトルをはじめ、当時のアメリカの日常にあふれていたものが主役となります。

『ルー・リード(コーク)[ST269](Lou Reed (Coke) [ST269])』16ミリフィルム 1966年。

『ユア・イン(You’re In)』1967年。
ウォーホルは、それまで芸術の題材とは考えられにくかった身近なものを、大胆に作品へと取り入れていきました。
彼は「大統領も映画スターも、そして普通の人も、同じコカ・コーラを飲んでいる」という言葉を残しています。現実には貧富の差があっても、誰もが同じものを手にし、同じ味を楽しめるという考えで、その均一性に、アメリカの消費社会の本質を見ていたのです。
さらに、一般家庭で親しまれていたキャンベル・スープ缶を繰り返し並べることで、まるでスーパーマーケットの商品棚のような光景をつくり出します。何度も目にするロゴやパッケージは、単なる商品から時代を象徴するイメージへと変わっていきました。

ガラスケースの無い自由な空間で、展示された作品の数々。
展示場には、アップルコンピュータやシャネルの香水など、強いブランドイメージを持つものを題材とした作品も並びます。

広告シリーズ。左から、『パナマウント(Paramount)』『ライフセーバーズ(Life Savers)』『アップル(Apple)』1985年。

広告シリーズ。『シャネル(Chanel)』1985年。
私たちは商品を選ぶとき、その機能だけでなく、ブランドが生み出す世界観やイメージに惹かれることがあります。広告イラストレーターとして活躍したウォーホルは、商品とブランドイメージが切り離せない関係にあることをよく知っていました。その視点は、やがて肖像にも向けられていきます。
4. 肖像が「商品」になるとき
ここでは、マリリン・モンローやジャクリーヌ・ケネディなど、世界的な有名人の肖像画が展示されています。
映画の宣伝写真や、悲劇的な出来事を報じる雑誌・新聞に掲載された写真など、すでに大衆の記憶に刻まれていたイメージを素材としたのです。そうした写真イメージをシルクスクリーンで何度も刷り、髪や唇、肌、背景に鮮やかな色彩を重ねていきました。

『ジャッキー(Jackie)』シリーズ 1964年。
シルクスクリーンは本来、同じイメージを大量に複製するための印刷技法です。しかしウォーホルは、この技法を絵画表現へと転換し、版を手作業で扱いながら色や位置を変えて刷ることで、一点ごとに異なる表情を持つ作品を制作しました。こうした実践こそが、複製とオリジナルの境界を問い直し、ポップアートを象徴する独自の表現を確立させたのです。

アンディ・ウォーホルが『マリリン・モンロー』シリーズを制作している様子。
ウォーホルがマリリン・モンローの肖像を制作し始めたのは、彼女が亡くなった直後でした。作品の中のマリリンは、いつまでも若く、美しいままで、同じ肖像が繰り返し並びます。その反復によって、一人の女性の肖像は、大量に複製され、流通し、消費される商品のイメージと重なっていくのです。
1964年、新しいアトリエを“ファクトリー(Factory=工場)”と名付けます。そして、アシスタントとともにシルクスクリーン作品を次々と制作することで、芸術と商業、大量生産とオリジナルという境界を曖昧にし、20世紀美術に大きな影響を与えました。
その絶頂期に悲劇が起こります。1968年、アーティストや俳優など、多くの人々が自由に集うファクトリーで、急進的フェミニストのヴァレリー・ソラナスに銃撃され、ウォーホルは瀕死の重傷を負うのです。一命は取り留めたものの、生涯にわたって後遺症に苦しむこととなり、この出来事を境に、作品には生と死を強く意識した表現が色濃く表れるようになります。

『マリリン・モンロー / マリリン(Marilyn Monroe / Marilyn )』1967年。
1970年代に入ると多くのコミッション・ポートレート(依頼肖像画)を手がけ、ファッション界から政財界まで、様々な著名人がモデルになりました。ですが、中には、実業家や社交界の人物など、一般にはあまり知られていない富裕層も多く含まれていました。

『イヴ・サンローランの肖像(Portraits of Yves Saint Laurent)』1972年。
「未来には、誰もが15分間だけ世界的に有名になれる」というウォーホルの言葉があります。それは、まるで現代のSNS社会を予見していたかのようです。InstagramやYouTubeでは、一つの投稿をきっかけに、それまで無名だった人やものが世界中の注目を集めます。一人ひとりが自分自身を発信し、イメージをつくる時代になりました。しかし、一方で、その注目は長くは続きません。話題は瞬く間に移り変わり、多くは彼の言葉どおり、「15分間の名声」のように忘れ去られていくのです。
5. アメリカという神話
「アメリカでは努力と才能で、誰もが夢を掴める」、それがアメリカン・ドリーム。移民家庭に生まれたウォーホルは、ニューヨークで世界的なアーティストとなり、名声と富を手にしました。まさに、アメリカンドリームを体現した人でした。
しかし、その視線は成功だけではなく、その時代のアメリカ社会へと向けられていました。

『ドル記号(Dollar Sign)』1981年。
では、彼が描いたアメリカとは?
ドルは資本主義や豊かさの象徴であり、ドナルド・ダックやスーパーマンは世界中で親しまれるアメリカ文化のアイコンです。

(右)『ドナルド・ダック(Donald Duck)』1986年。

『神話(Myths)』シリーズ全10点の展示風景。
晩年の代表作の一つで、冷戦下の時代に制作された『カモフラージュ』では、軍服などに使われる迷彩柄が題材になりました。本来は姿を隠すための模様である迷彩を、鮮やかな色と巨大なスケールで表現することで、目立たないはずのものを、逆に人々の視線を引きつけるモチーフへ反転させたのです。

『カモフラージュ(Camouflage)』1986年。
また、「救急車の惨事」に代表される「死と災害」シリーズでは、交通事故や暴力といった痛ましい出来事さえも、新聞やテレビを通して反復され、大量に消費されていく現実を映し出しました。

『救急車の惨事(Ambulance Disaster)』1963 – ’64年。
ウォーホルは、自分が描いた作品の本質を否定することも、賛美することもありませんでした。ただ、それらを作品として提示し、見る者に答えを委ねたのです。人々は何に憧れ、何に熱狂し、何を消費しているのか。

自由の女神(Statue of Liberty)、1986年。
その問いは、半世紀以上を経た今もなお、私たちに向けられています。彼が描いていたのは商品やスターだけではなく、それらに憧れ、貪欲に消費していく私たち自身の姿だったのかもしれません。
●「ウォーホル(WARHOL)」展
2027年1月24日まで。
エレーヌ&エドゥアール・ルクレール文化基金
Fonds Hélène & Édouard Leclerc pour la Culture
オフィシャルサイト:https://www.fonds-culturel-leclerc.fr
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