マリー・アントワネットとロココ
協力 : 文化学園図書館、文化学園服飾博物館
text : Rumiko Kawashima
『装苑』2007年2月号転載記事

portrait Marie Antoinette
文化学園図書館蔵
典雅で華麗で、リズム感のある軽快さを持つロココ様式。それは、ヴェルサイユ宮殿で優美で甘美な宮廷生活が営まれていたルイ15世の時代に、王侯貴族に盛んにもてはやされていた様式である。
それ以前のルイ14世の時代は、宮殿の装飾は国王の偉大さを示すことが先決していた。
そのために、壁を飾る絵も天井画も国王の偉業がテーマだった。重要な部屋には大理石の国王の彫刻が置かれていたし、どの部屋も金箔と大理石が至る所に施された、壮麗なバロック様式だった。
宮廷生活は、国王の威勢と威厳を国民にも外国にも示すために、朝から晩まで儀式と規則にうずもれていた。国王のご機嫌取りのために、親族も貴族も我慢しながら嫌々ながらそれに従っていたのである。
そのルイ14世が逝去し、新しい国王ルイ15世の時代になったのは1715年だった。その時から人々は、長年の束縛から解放されたかのように自由を満喫する生活を好むようになり、軽快なロココが生まれて人々の心をとらえる。
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ローブ・ア・ラ・フランセーズ 1760-’70年代
文化学園服飾博物館蔵
優雅で装飾性に富んだロココ時代の宮廷女性の衣装は、ローブ・ア・ラ・フランセーズと呼ばれ、胸もとが広く四角くあき、細いウエストと、左右に張り出した腰、背に、ヴァトー・プリーツが施されているのが特徴。
ロココは、バロック様式から発展し、フランスに生まれた建築、装飾の一様式。レジャンスからルイ15世、ルイ16世の時代、1715〜’93年を指し、フランス語のロカイユ(庭園に用いられた小石や貝殻をセメントで固めた人工の岩窟)からきた言葉で、この時代の装飾文様がロカイユに似ていることから、これを嫌う古典主義者によって名づけられた。ファッションでいえば、1730〜’70年に最盛期を迎え、バロックを土台に優美、繊細さの面で洗練され、芸術性の高いファッションが登場した。
ストマッカー 1730年ころ文化学園服飾博物館蔵
宮廷女性の礼装のローブの前面につけられた胸当て。
曲線やうねりのあるカーブを特徴とするロココは、色彩が豊かで華やぎが満ちあふれ、明るく、楽しく、繊細だ。絡み合ういくつものラインは官能的でさえある。それは、快楽を求めるその時代にぴったりだった。
ルイ14世の命令で造られたバロックの部屋もいくつか模様替えされ、ロココが取り入れられるようになった。絵画もルーヴル美術館に展示してあるアントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェの作品からも分かるように、優美で華やぎのあるロココになる。
ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人の庇護の下に発達した、セーヴル焼の磁器にもロココが表現された。やがてフランスで生まれたロココは国境を越え、ヨーロッパ諸国の君主たちにも大きな影響を及ぼすようになるのである。

アビ・ア・ラ・フランセーズ 1780年代
文化学園服飾博物館蔵
ロココの男性の衣服を象徴するスタイル。縞織りのシルクに花柄の刺繍を施した礼装用のアビ。
オーストリアのハプスブルク家に生まれたマリー・アントワネットが、フランス王太子、後のルイ16世と結婚したのは1770年5月16日だった。式はヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で行なわれ、それ以後マリー・アントワネットは宮殿で暮らすようになる。そこにはロココの装飾があった。
マリー・アントワネットはそれ以前にすでにこの様式を知っていた。彼女が生まれ育ったウィーンの王宮にも、郊外にあるシェーンブルン城の一部にも取り入れられていたからだ。ハプスブルク家の皇帝の結婚式やその他の重要なミサをあげていた、王宮の一部である宮廷教会アウグスティナーには、ロココのパイプオルガンが今でも残っている。その清麗な美しさは息をのむほどだ。
ヴェルサイユ宮殿を中心としてバロック、ロココと華麗な様式が続いた後、クラシックが見直されるようになり新古典主義の時代を迎えるが、マリー・アントワネットが宮殿に暮らすようになったころには、ロココが至る所で息づいていたのである。

マリー・アントワネットの部屋の壁紙の一部
Modes et usages au temps de Marie-Antoinette/par le comte de Reiset(1885)
文化学園図書館蔵
オーストリア女帝マリア・テレジアの皇女として生まれたマリー・アントワネットは、末娘だったこともあり甘やかされて育った。勉強には全く興味を持たないでいたが、それでも皇女として受けるべき教育はなんとかこなしていた。
フランス王太子妃となったマリー・アントワネットは明るい性格で、おちゃめで、何よりもその美貌が人々を魅了していた。豊かなブロンド、陶器のような光沢を持つ肌、ブルーの大きな瞳、引き締まった唇。それに加えてヨーロッパ最大の名門ハプスブルク家出身という肩書きもある。

マリー・アントワネットが着用していたブラウス。
Modes et usages au temps de Marie- Antoinette / par le comte de Reiset(1885) 文化学園図書館蔵
すべてを手にしているかのように見えたマリー・アントワネットだったが、彼女にも悩みがあった。夫に肉体的な欠陥があったために、妻はいつまでも生娘のままだったのである。夫は妻を女性として扱うこともなく狩猟に出かけたり、アトリエに閉じこもって錠前作りに精を出していた。その間、退屈でしかたがない妻は、お気に入りの貴族夫人を相手にトランプに興じたり、舞踏会で踊ることに熱中する。
マリー・アントワネットが最初の子供に恵まれたのは、彼女の兄の説得によって夫が手術を受けた後の1778年のことだった。その4年前にルイ15世が逝去し王太子がルイ16世として即位し、その妻マリー・アントワネットはフランス王妃の座についた。

ローブ・ア・ラ・フランセーズ 1770年ころ
文化学園服飾博物館蔵
4人の母親になったマリー・アントワネットは、子供たちへの愛情は持っていたが、お世辞にも整った容姿をしているとはいえない、しかもまじめすぎて退屈な性格の夫には、愛のかけらも抱いていなかった。
王妃としての自覚もほとんどなく、楽しむことが優先していた。オーストリア大使メルシーの詳細な報告で、娘の一挙一動を知っていた母マリア・テレジアが、朝まで賭け事に熱中していることを厳しくとがめたり、少しは読書をするようにとすすめたり、日に日に派手になる服装と髪型を非難する手紙を何度も送ったが、効果はさっぱりない。

Cabinet des modes,ou Les modes nouvelles 1785-’86年
文化学園図書館蔵
1770年、3800種類もの変化に富んだヘアスタイルがあったと伝えられている。ポンパドール夫人のころは、頭を小さくタイトにしたヘアスタイルが流行していたが、マリー・アントワネット全盛期にはヘアスタイルも豪華さを増し、ガーゼと花と羽根飾りによって高くそびえた髪型や「顔が全身のまん中に見える」ようなウルトラハイの髪型など衝撃的なスタイルが流行した。
マリー・アントワネットが最も関心を抱いていたのは、おしゃれだった。装飾の多い目立つ服、奇抜な髪型、ゴージャスな宝石が彼女の心を支配していたのである。
宮廷には何人ものデザイナーがいたが、マリー・アントワネットが特別に気に入り、お抱えのデザイナーとしていたのはローズ・ベルタンだった。ベルタンはそれ以前にポンパドール夫人の服も手がけていた。


ローブ・ア・ラ・ポロネーズ 1770年代
文化学園服飾博物館蔵
ローブの一種で、ポーランド風のドレスのこと。オーバースカートつきローブで、オーバースカートに2本のコードがついていて、着用する人の好みによってたくし上げることができる。

ポロネーズ風のドレス 1777年
ル・クレール
Galerie des Modes et du Costume Français
文化学園図書館蔵
すぐれたセンスとアイディアを持つベルタンは、次々とマリー・アントワネットに斬新なデザインのドレスを提案し、そのどれもこれも王妃を誘惑しないではいなかった。信頼を勝ち取ったベルタンは「モード大臣」とさえ呼ばれるようになり、丁重に宮殿に迎えられ、限られた人しか許されていなかった王妃の内殿の「黄金の間」にまで通されていた。
その部屋で、王妃とベルタンは新しいドレスについて語り合い、仮縫いをしていたのである。それは毎週のことだった。
色白で理想的な卵形の輪郭の顔、そして華やかさがある輝く瞳を持つマリー・アントワネットには、どの色もよく似合った。彼女が特に好んでいたのはピンクと薄紫だった。ベージュ一色のドレスもあったし、ラベンダー色に白い水玉や縞模様のもあった。濃いブルーも王妃にさらなる輝きを与えていた。

マリー・アントワネットのレースのフリル袖 ヴィジェー・ルブラン
Modes et usages au temps de Marie-Antoinette/par le comte de Reiset(1885)
文化学園図書館蔵
布地はタフタやシルク、ベルベットなどで、胸もとや袖口にレース飾りがあり、リボンが結ばれ、刺繍も欠かさず施されていた。ボタンは小粒のダイヤモンドをつけることが多かった。胸もとを大きくあけ、ウエストは思いっ切り絞り、スカートはたっぷりしたフレアで、その中に木枠のペティコートを着て膨らみを強調していた。

靴 1760年ころ
文化学園服飾博物館蔵

扇 1760-’70年代
文化学園服飾博物館蔵
王妃の服の数は膨大で、記録によると1782年には170着も持っていた。そのほかストール、帽子、手袋、靴、ランジェリー、ハンカチ、扇などが衣装部屋に保管されていた。そればかりではない。まばゆい輝きに抵抗できないマリー・アントワネットが購入した、数多くの宝飾品もある。
そうしたすべての品は台帳に記録されていて、毎朝その台帳を衣装係長がマリー・アントワネットの元に持参し、王妃がその日身につける品を自ら選んでいたのである。
王妃に仕える貴族婦人たちも競って模倣し、ヴェルサイユ宮殿の華麗な宮廷生活はヨーロッパの王侯貴族の羨望を買うようになる。それはフランスのエレガンスを世に示すことにもなった。それを先導していた豊麗なマリー・アントワネットは、やはり比類なき女性だったということができる。
ローズ・ベルタンとマリー・アントワネットが出会う。
プチ・トリアノンを手に入れる。
雑誌「ギャラリー・デ・モード」刊行。
雑誌「キャビネ・デ・モード」刊行。
首飾り事件の判決が出る。
雑誌「マガザン・デ・モード」刊行。
7月 バスティーユ監獄襲撃。
6月 チュイルリー宮殿占拠。
8月 国王一家をタンプル塔に投獄。
古代ギリシア・ローマ風のシュミーズドレスが流行。
7月3日 息子ルイ17世と引き離される。
8月2日 重罪犯を収容するコンシェルジュリに移される。
10月16日 マリー・アントワネット処刑。
design&coding : Akari Iwanami





