日本から世界へ飛び出したクリエイターたちをシリーズで紹介。
今回のゲストはファッションデザイナーの大森美希さんです。

教員とデザイナー、二足のわらじで活躍する大森美希さん。
デザイナーが絵を描き、それをもとに服を作る——。そんなイメージを持っている人が多いのではないだろうか。だが、パリのメゾンでは、まったく異なる方法で服が生み出されているという。
「最後なんですよ、デザイン画を描くのは」 そう話すのは、メゾンの現場を知る数少ない日本人デザイナー、大森美希さんだ。
2000年からファッションの本場パリを拠点に活動する大森さんは、バレンシアガ、ランバン、ニナ リッチ、コーチと、著名メゾンを渡り歩き、現在はランバンのデザインコンサルタントとパーソンズ・パリの修士課程アソシエイトディレクターというダブルワークをこなす。
パリへ渡り、国籍の壁を超えて、競争の激しいファッション界でキャリアを築いてきた大森さん。その道のりとは? そして、華やかなイメージの裏側にあるデザイナーの仕事のリアルとは?


大森さんが携わったランバン 2026-’27年秋冬コレクションより。Photos : Courtesy of Lanvin
ファッションへの憧れを追って
小さい頃から服が好きだったという大森さん。
「お姫様のドレスを描いたり、着せ替え人形で遊んだりしていました。小学校の時は、ファッションモデルになれば洋服がいっぱい着られると思って、背を伸ばそうと一生懸命牛乳を飲んでいたんですよね(笑)。先生を目指した時期もありました。女性が自由に暮らすには、ちゃんとした職業に就いたほうがいいと思って」
それでもファッション界への憧れは消えず、文化服装学院への進学を決意。きっかけは、雑誌『anan』で目にした卒業生たちの記事だった。
「学院の小池千枝先生が卒業生にインタビューする内容で、すごい人たちだなって。活躍するデザイナーが圧倒的に多いのも選んだ理由でした。『装苑』も中学から読んでいて、付録の作図を使って服を作ったこともありますし、装苑賞の記事も見ていました」
在学中は苦学生だった。放課後はアルバイトで学費を稼ぎ、宇都宮の実家から2時間かけて通学する日々。おしゃれな学生たちに囲まれながら、ファッションを楽しむ余裕もなく、いつもTシャツにジーンズ姿だった。
「やっぱり悔しかったですね。でも、お金がないからしょうがない、って我慢していて、いつか見返してやるって思っていました」
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教員生活から、パリへの道を切り拓く
2年生の前期で、学費が尽きた大森さんは休学。1年間アルバイトで学費を貯めて復学し、就職活動を始めた。だが、理想が高く、受けた会社はすべて不採用。それを見かねた先生から勧められたのは、仙台にある服飾専門学校の教員だった。
「就職浪人という選択肢はありませんでした。でもブランドへのこだわりがあって。だめなら先生でも資材屋さんでも、服飾関係の仕事をしながら、いつかリベンジしようと思ったんです」
くしくも一度志した教員となった大森さんは、学生時代には手が回らなかったコンテストに挑戦。持ち前の行動力と「いつかデザイナーになる!」という信念で数々の賞に輝いた。そして、1998年にはフランスの国際コンクールで日本代表に選出。パリの決勝大会への出場も果たした。

フランスの「ファッションクリエーター新人賞国際コンクール(Concours International des Jeunes Créateurs de Mode)」のカタログより。決勝進出となった大森さんのデザイン画。Photo : Yoshinori Miyazaki
実は「小さい時から海外に住んでみたかった」という大森さん。背中を押したのは専門学校時代の恩師の「お金が貯まったら、いっそのこと留学したら?」という言葉だった。働きながらフランス語を学んでいた彼女は、機が熟すのを待ち、2000年に5年間勤めた学校を退職。「3年でデザイナーになれなかったら帰国する」と心に決め、ついにパリに渡るのだった。

仙台の教員時代の大森さん。写真:本人提供
バレンシアガへの挑戦
留学先は、デザイナー養成校として定評のあったステュディオ・ベルソー。フランス式デザインのノウハウにも興味があったが、一番の目的は学校を通して行われる企業研修だった。留学2年目、大森さんは研修先を探して奔走する。
狙っていたのは、当時、勢いに乗っていたニコラ・ジェスキエール率いるバレンシアガである。すでに研修生として働いていた友人の協力で、面接までたどり着くが、フランス語力を理由に不採用。やりきれない思いが残った。
それでも諦めず、アプローチを続けること1年。その友人から「今がチャンスだ」と知らされ、再び面接の機会をつかむ。その間に、研修先のケンゾーで経験を積み、フランス語を磨いたことが実を結び、今度は見事合格。粘り強さと行動力で自らキャリアの扉を開いたのである。
刺激的なパリのメゾン
バレンシアガでの仕事は想像を絶するものだった。
「刺激的なんてもんじゃなかったですね。服の基本から外れた、普通では考えられないようなデザインをどんどんやらされるので。ニコラから『こんなのできる?』と資料を渡されて、マケット(試作模型)を作るんですが、できなかったら悔しいじゃないですか。だから、作っていましたね」
負けず嫌いの性格と縫製のスキルを武器に、実験的なデザインをこなした大森さんは、約1年の研修を経て本採用に。日本を離れてから、ちょうど3年が経とうとしていた。
「私は縫製ができたから、いろいろなアイデアをきちんとマケットにして見せることができました。そうしたことが評価されたのだと思います。できなさそうなものが、できるわけですから」
2006年、4年近く働いたバレンシアガからランバンに移籍。欧米のファッション界では、キャリアアップするための手段が転職だからだ。

大森さんが在籍していた頃のバレンシアガ特集。文化出版局『High Fashion』2004年12月号(撮影:Takao Oshima)より。本特集では、筆者がスタイリングを担当した。Reproduction photo : B.P.B. Paris
人気絶頂のランバンにアタック
当時、アルベール・エルバスが率いていたランバンは人気絶頂。次のステージとして申し分ないメゾンである。募集がなくても、履歴書とポートフォリオを送る。大森さんにとってはそれが当たり前なのだ。だが、トップメゾンの壁は厚く、それだけでは採用に至らなかった。
転職活動中にはニューヨークに短期留学し、英語もブラッシュアップ。クリエイティブディレクターがフランス人でなければ、英語が必須になるからだ。
チャンスは突然やってきた。
「あるメゾンで決まりかけていた採用が直前に取りやめになってしまい、私のことを気に入ってくれていたスタッフに求職の相談をしたんです。そしたら、たまたまアルベールの知り合いで、その場で彼の携帯に電話をしてくれたんですよね。日本人の女の子が仕事を探しているって」
後日、アシスタントから連絡を受け、面接に向かう。一本の電話がアルベール・エルバスの興味を引いたのだ。試用期間を経た1か月半後、求人枠がない中、大森さんはシニアデザイナーのポストを獲得。周囲からは「なに、あの子」という目で見られたという。

パリの街角で。大森さんのワードローブは、敬愛するコム デ ギャルソンの服が中心。
時代の寵児、アルベールのもとで
少人数だったバレンシアガのデザインチームとは異なり、ランバンは大所帯。嫉妬や嫌がらせもあったが、そこでくじけないのが大森さんだ。
「この業界では、珍しいことではないんですよ。自分でもよく残っているなって思います。アルベールのもとで、デザイナーたちはいろいろ試されましたし、チームの中でも競争があるので。そこで耐えられた人だけが残る。そんな世界でした。辛いことはたくさんありましたが、糧になりましたね。服だけでなく、靴をデザインしたり、バッグのチームと仕事をしたり、クリエイティブディレクションのやり方を学ばせていただきました」
そうして4年半が経った頃、大森さんはさらなるキャリアを求め転職を決意。ニナ リッチのヘッドデザイナーに就任する。
40歳目前に、ヘッドデザイナーに
「ちょうど40歳になる年でした。それまで40を過ぎたシニアデザイナーを見たことなかったので、このまま働き続けてどれだけ残れるんだろうと不安になったんですよね。それで、役職のあるポストに就きたいと思ったんです」
ニナ リッチではウィメンズウェア部門のトップ。初めて部下を持った大森さんは、チームをまとめながらデザインの仕事に打ち込んだ。クリエイティブディレクターのピーター・コッピングとの関係も良好だったが、やがてCEOが交代。経営方針の変化に加え、コッピングの移籍が重なり、4年近く勤めた職場を離れる。
業界全体が、よりコマーシャル(商業的)なものへとシフトしていた時代、その関心はニューヨークへと向いていた。

職場があったフランソワ1世通り。Photo : B.P.B. Paris
ステップアップを目指し、ニューヨークへ
「あの頃、ニューヨークで経験を積んで、またヨーロッパのラグジュアリーに戻ってくるデザイナーが多かったんですよね。私は、パリで15年間仕事をしていたので、コマーシャルを勉強したら、次のステップアップにつながるんじゃないかと思ったんです」
ヘッドハンターを介してオファーされたのは、コーチのシニアディレクターのポジション。実質的には、年4回のウィメンズコレクションを担うヘッドデザイナーだった。在籍期間は約3年半。
「1からチームを構成して、やりがいがありましたね。でも、最初からパリに帰るつもりでいたので、自分から退職してパリに戻りました。ニューヨークは好きですけど、ファッションの仕事をするなら、やっぱりヨーロッパがいいと思っていたので」
教育とデザインの二つの道
2019年、パリに戻った大森さんは就職活動を再開。そこへ新型コロナウイルスが襲った。外出禁止令下ですべてのショーが中止され、メゾンのリクルートも停止。それでも彼女は前向きだった。
「その期間にSNSをデベロップさせて、『note』も始めました。それまで仕事ばかりでしたが、日本の人たちと交流するようになりましたね。貯金を崩して生活していましたが、いつコロナが終わるかわからず、お金も必要になって。仕事は何でもいいわけじゃないけれど、先生ならいいかなと思い、いろいろな学校に手紙を送りました」
こうしてパーソンズ・パリに迎えられた大森さんに、新たなチャンスが訪れる。ニナ リッチ時代に仕事をともにしたピーター・コッピングが、ランバンのアーティスティックディレクターに就任し、デザイナーを探していたのだ。
「道でばったりピーターに会ったんですよ。10年ぶりでした。その時に、デザインコンサルタントの仕事を探しているって話したんです。実際、探していたので。そしたら電話がかかってきたんです」
運を逃さす、次の可能性へとつなげる。そんな彼女の姿勢を物語るエピソードだ。

パーソンズ・パリの授業風景。トゥオマス・ライティネン(Tuomas Laitinen)先生と、個別に学生を指導。