2023年、創立100周年を迎えた文化服装学院。文化の100歳をお祝いした連載の最終回は、文化服装学院で学んだスキルを生かし、海外のメゾンで活躍する卒業生へのインタビュー。海外で文化服装学院卒業生の技術力は高く評価され、メゾンやコレクションブランドで活躍している卒業生は多数。また、海外で自身のブランドを展開している人も。ファッションの本場、ヨーロッパで自らの才能を輝かせる方法は?
文化服装学院卒業の経歴は、海外では大きな強み。世界で戦える人になれます。
photographs: Jun Tsuchiya (B.P.B.)
BOTTEGA VENETA クリエイティブパターンカッター
小寺澤ミチルさん
経歴
文化服装学院アパレル技術科生産システムコース(現・アパレル技術科)卒業
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イギリスに渡る
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イギリス・ロンドンのオートクチュールブランドや、イタリア・フィレンツェのブランド、イタリア・トリノのウェディングブランドなどで経験を積む
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【転機】イタリアのアレキサンダー・マックイーンでパタンナーとして勤務
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ヴァレンティノのプレタポルテのアトリエでパタンナーとして勤務
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ボッテガ・ヴェネタでクリエイティブパターンカッターとして勤務
文化卒を武器に、世界で経験を積む
2023-’24年秋冬のキャンペーンビジュアル。ドレスを担当することが多い小寺澤さんが手がけた、稀有なテーラードルック。© BOTTEGA VENETA
イタリア・ミラノのボッテガ・ヴェネタでクリエイティブパターンカッターとして働く小寺澤ミチルさん。群雄割拠のモードの本場、ヨーロッパで仕事を始め、キャリアアップを続けていくために必要なものを尋ねた。
「学生の頃は就職氷河期で、多くの生産背景は国内から中国に移転。そうした時代の変化や、パタンナーになりたいけど就職したい会社がなかったこともあって、英語を勉強すると親に言って、卒業後すぐに渡英したんです。日本で就職しない言い訳ですね(笑)。日本人の海外就労支援を行う協会に登録して、デニムの縫製工場で働いた後、オートクチュールの会社を紹介してもらい、パタンナーとして働き始めました。そこでは“スーパースチューデント”と呼ばれていました。頼まれたパターンはすぐ引ける。作業工程を先回りもできる──。その時、文化服装学院でいかに高い水準の教育を受けてきたかを実感しました」
ボッテガ・ヴェネタの2024-’25年秋冬コレクションより、小寺澤さんが担当したルック。「デザイナーの思いを、その期待を超える形にすることがパタンナーの仕事」と語る小寺澤さんが、クリエイティブ・ディレクターのマチュー・ブレイジーの創造性を形にした逸品。© BOTTEGA VENETA
小寺澤さんのキャリアの転機は、イタリア・トリノでウェディングドレスの仕事をしていた頃。アレキサンダー・マックイーンから引き抜きの連絡が入ったのだ。
「文化服装学院の卒業生は技術があることで知られているため、ヘッドハンターはLinkedlnなどで文化卒の人を検索します。それで私のところにも連絡が入ったのです。マックイーンを境に、ヴァレンティノ、ボッテガ・ヴェネタとキャリアが続いていきました」
ボッテガ・ヴェネタの2024-’25年秋冬コレクションより、小寺澤さんが担当したルック。© BOTTEGA VENETA
プレタポルテのアトリエ機能をミラノに構築するタイミングでボッテガ・ヴェネタに参画した小寺澤さんは、「パタンナーとして、会社で多くを学びたい」という一貫していた思いをリセットし、体制作りに尽力してきた。
「私自身、今はボッテガ・ヴェネタが大好きで、ショーを見れば『うちのブランドがイタリアでいちばん素敵!』と、素直に思います。実は、学生時代、私は文化の中退を考えたこともあったのですが、文化卒業生の叔母のアドバイスで在学を決意したんです。中退ではなんの経歴にもなりませんから、卒業して本当によかったと思います。文化で基礎を習得し、それを応用することができれば、海外で活躍する人になれるはず。語学は使えば磨かれますから、恐れずに一歩を踏み出してほしいです。海外では転職にヘッドハンターとの交渉がつきものですが、自分を信じてプレゼンをすることで最良のオファーを獲得できます。パターンも、1000型引いた人より、10000型引いた人のほうが絶対的に素敵な作品を作っています。結果すべてが経験の上に成り立っているので、夢を描いてどんどん挑戦していくことが世界で活躍する秘訣です」
文化で学ぶことで、こちらの人と違う視点で物を作れるようになる
photograph: Chieko Hama / interview & text: Mariko Mito (B.P.B. Paris)
DIOR モデリスト
吉田 隼さん
経歴
文化服装学院服飾専攻科技術専攻卒業
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国内アパレル企業でパタンナーと縫製
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フランスに渡る
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ランバンでインターン
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ニナ リッチ、サンローラン、ディオールでデザイナー、モデリストとして勤務
やりたいなら恐れずにチャレンジするんだ
フランスの名だたるメゾンでキャリアを重ね、現在はディオールのオートクチュール部門でモデリストを務める吉田隼さん。文化服装学院時代には学院長賞を受賞。「負けるもんかって思っていた」と当時を振り返る。
「アパートは風呂なしの4畳半で、夜はコンビニでアルバイトをしながら、休憩中にも課題に取り組んでいました。ほかの学生には絶対に負けるもんかという思いで服飾造形の授業にのめり込み、服作りに熱中していました。つらかったけど、それが僕の土台を作った」
吉田さんが個人プロジェクトで制作した作品。立体で造形された美しいドレープなどにモデリストとしての技が光る。
モードの本場を目指し、27歳で国内のアパレル企業を退社し渡仏。
「フランスに来てからは、技術に自信があるのに勝負の舞台に立てないもどかしさを感じていましたが、運よく知人の紹介でランバンのアトリエの研修生になれました。アルベール・エルバスがいた、とても勢いのある当時のランバンでは、フランス語で苦労しましたが、プライドを捨てて半泣きでやり、様々なことを学びました。ニナ リッチでは、僕の試作品がアーティスティックディレクターに気に入られて、デザインスタジオで働くことに」
「文化服装学院で学ぶことで、こちらの人ができない、違った独自の視点で物を作れるようになる。それが自分だけの武器となる。服の構造やパターンを理解し、立体裁断ができるので、着られる服を作れます。服は彫刻じゃないから、ボディの上で美しいだけでなく、実際に着ても美しくなきゃいけない。今はモデリストですが、デザインスタジオでデザインもしたので両方の視点を理解していることが僕の強みです」
「働き出してから、先輩たちの功績や文化服装学院の名前の重みを実感しました。パリのメゾン、特にスタジオで『文化服装学院を卒業した』と言うと、あがめられるんです(笑)。仕事はハードですが、自分のスキルを使い、好きなことでお金を稼ぎ、本場で社会貢献ができていることに幸せを感じます。日本の学生たちには、得意なことを伸ばし、自信を持ってほしいです。語学をプラスすれば海外でもやれる。日本を出るのは怖いかもしれないけど、自分の心が語っていることに耳を傾け、やりたいなら恐れずチャレンジするんだ。君たちはできる、頑張れ」
パリはファッション界のメジャーリーグ。この街だからできる仕事がある。
photograph: Chieko Hama
HIZUME デザイナー
日爪ノブキさん
経歴
文化服装学院アパレルデザイン科卒業
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イタリアに渡り、自身の名前でブランドをスタート
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帰国
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文化庁新進芸術家海外研修制度にて選出され、フランス・パリに渡る
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自身のプロジェクトを並行させながら帽子アトリエで10年間修業
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パリで会社「JBK」を設立。フランスの人間国宝ともいわれる仏国家最優秀職人章(M.O.F.)を受章。帽子ブランド、HIZUMEをスタート
挫折を糧に、パリで一流の仕事をする
HIZUME 2024年秋冬(右)と、’24年春夏(左)。前衛的なデザインを高度なテクニックで形にする日爪さんのクリエイション。その他のコレクションはウェブサイトをチェック。https://hizume.com
パリで帽子ブランド、HIZUMEを展開する日爪ノブキさんは、文化服装学院入学前から、海外で働くことを目標にしていた。
「チャンスが来たらすぐに行けるようにと、英語の勉強など最低限の準備をしていました。2年生の4月頃からコンテストに応募しはじめ、最初に描いたデザイン画が装苑賞にノミネート。その作品『人間花束』が話題になったことで、〝文化ドリーム〟をつかめるかもしれないと、その後も装苑賞を含むたくさんのコンテストに応募しました。学生時代は本当に派手な格好をしていて、作るものも個性的。3年生の時、イタリアの雑誌数誌に掲載され、それを見たアパレルメーカーの社長からオファーを受けて、イタリアでブランドを立ち上げることになりました」
華々しく夢をつかんだ日爪さんだが、イタリア語に苦労し、さらに就労ビザの問題で帰国を余儀なくされる。24歳の時のことだ。
「自分の認識や準備の甘さで残れなかった、と後悔ばかりでした。もう一度、海外に挑戦したいとずっと思っていました」
そうして文化庁新進芸術家海外研修制度に応募し、多くの幸運を引き寄せて、エルメスやディオールなどのパリのクチュールブランドの帽子の製造を手がけているアトリエで働くことに。自らのプロジェクトを並行させながら10年の修業期間を経て独立した。
「修業時代には、帽子業界の世界一のデザイナーと職人のもとで経験を積むことができ、その二人を超えたいと集中していたら、10年はあっという間でした。自分の会社を立ち上げるには専用の労働許可証が必要ですが、その取得のための道筋も、イタリアでの失敗を経ていたので本当に考え抜きました」
日本とは違い、あらゆる面で苦労することも多いというが「その大変さを天秤にかけてもパリで仕事をするよさがある」。
「パリはファッション界のメジャーリーグ。各ブランドのトップにいる方は本当に能力が高く、いいものを作ります。そういう人たちと仕事ができるのはすごく楽しいです。最初に仕事で行ったパリコレのバックステージは、ジョン・ガリアーノ最後のディオールのオートクチュールショーで、パリに来てよかった、と感じました。2023年にロエベのショーでコートを作った時も、この街だからできる仕事だと思いました。フランスは、その人が唯一無二だと認めれば外国人も自国民のように扱ってくれます。そこで職業能力を磨きつつ、経営感覚を持つこと。そのバランスが重要なんだと感じています」