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世界へ飛び出した日本人
vol.1 日爪ノブキさん

2021.09.30

日本から世界へ飛び出したクリエイターたちをシリーズで紹介。
最初のゲストは帽子デザイナーの日爪ノブキさんです。



フランス国家が優秀な職人に与える称号M.O.F.を持つ日爪ノブキさんは、帽子部門唯一の日本人。パリを拠点に帽子デザイナーとして活躍するが、実はあらがった末に受け入れた道だった。挫折を乗り越えた先に見えた未来とは?


日爪ノブキ(ひづめ・のぶき)さん。アトリエを置く建物の中庭にて。エッフェル塔と同じ頃に造られたここは、パリ右岸の職人の歴史を物語るかつての工業団地。今でも複数のアトリエがあり、その頃の面影が残る。


「新しいことをするためには、壊さなければならない」

M.O.F.(Meilleur Ouvrier de France =フランス国家最優秀職人章)は、フランス文化を継承する高度な技術を持つ職人に授与される栄誉ある称号。手にすることができるのは、厳しい試験を突破したわずかな者のみ。2019年にM.O.F.を獲得、帽子職人であると同時に前衛的なクリエイションを行う日爪ノブキさんは、この挑戦を「新しいことをするためには、壊さなければならないから」と話す。

「何もない人が壊しても説得力がありません。でもM.O.F.であれば、そこに意味が生まれます。基盤があるからこそ壊せると思うんですよね。それに僕は外国人なので、信用になるものが必要だと考えました。周りを説得できる状態を作っておきたかったんです」


アーティスト“NOBUKI HIZUME”の作品。©Nobuki Hizume


コンクールが開催されるのは4年に一度。まさにオリンピック級にチャレンジの機会が限られている。当時、日爪さんが働いていたのは、名だたる高級ブランドが信頼を寄せる帽子工房。合格する自信があった。だが、最終審査で落とされるという挫折を一度味わっている。

「不合格通知を開いた時、生まれて初めて腰が砕けました。本当に立てなかったです。アトリエのボスも結果に驚いて、すぐに電話で審査会に問い合わせてくれました。彼女は長年、審査会のプレジデントを務めてこられた方ですが、電話を切った後『不運だったね』と一言。『通っているだけの実力があるから心配しないで』と慰めてもくれましたが、僕にとっては大違いでした」
その頃の日爪さんは34歳の若さ。加えて外国籍というハンディもあった。

「すべてをかけていたから悔しかったし腹も立ちました。でも、言い訳はしたくなかった。だから次の試験は死に物狂いで取り組みました」
2019年、日爪さんは二度目の挑戦で見事合格。奨学金制度でフランスに渡ってから、ちょうど10年後の春だった。

写真上:コンクールに提出した作品より。建築家ザハ・ハディドさんの建造物から着想したウエディングコレクションが高評価され、念願のM.O.F.が授与された。下:授章式の日に。©Nobuki Hizume


「帽子を作っていると、みんなが幸せになる」

現在、帽子ブランド「HIZUME」でコレクションを発表し、フランスと日本の様々なプロジェクトで活躍する日爪さんだが、実は自ら望んで帽子デザイナーになったわけではない。服への興味はあった。高校卒業後は服飾系の専門学校で学びたいと考えたが、両親の強い勧めで大学に進学。いつか自分のブランドを出す日のためにと、経営学部を選ぶもファッションへの思いが募った。在学4年目にダブルスクールで東京の文化服装学院に入学した日爪さんは、ひたすらコンテスト活動に打ち込む学生時代を送る。

「大学での3年間の遅れを取り戻そうと必死でした。課題だけをしていたら周りに負けてしまうと思って」
結果、名の知れた数々のコンテストでグランプリを受賞。優秀な学生に贈られるデザイン賞を手に卒業した。その甲斐もあり、イタリアのメーカーからの申し出を受け、海外で自身の名前のブランドを出すという夢のような一歩を踏み出す。だが、その後に待っていたのは悩み苦しむ日々だった。

『装苑』2004年7月号で紹介された学生時代の作品。
Photographs Satoshi Minakawa/ANGLE、HAIR TAKE/DADA、MAKEUP Uda/GUNN’S、MODELS Jenny,Sebastian,Bobby、STYLING Kyoko Fushimi/KAY OFFICE、DIGITAL RETOUCHING Minori Kidera、ART DIRECTION Tomoyuki Yonezu-Erotyka/FEMME

「その時点で目標を達成できたので、満たされてしまったんですよね。24歳で大スランプに陥り、生きていることに意味を感じられなくなりました。どん底でしたね」

帰国を決めた日爪さんに、思いもよらないオファーが舞い込んでくる。ブロードウェイミュージカルの帽子・装身具の制作の仕事だった。依頼主は多数の舞台を手がける敏腕プロデューサー。トニー賞に輝き話題になった「ザ・ボーイ・フロム・オズ(THE BOY FROM OZ)」の日本人キャストの公演が決まり、スタッフを集めていた。

「帰国後のことは何も決まってなかったので、軽い気持ちで引き受けました。帽子を作ったことも日本で働いたこともなかったのにです。最初のミーティングで事の重大さに気がつき『これは、まずい』と内心焦りました」
それでも独学で帽子を作り上げ、巨大な背負い羽根の衣装は「本家を超える」とブロードウェイの演出家をうならせた。結果は上々。それからというもの、口コミで次々に帽子の仕事が入った。ビッグチャンスを掴んだ転機だが、日爪さんの心中は複雑だった。

「僕にとっては敗北でした。なぜならレディースのコレクションラインで成果を出すことが、ファッションデザイナーの成功だと思っていたので。もともと自分の意思で仕事を取ってきたわけではないし、たまたま客観視できる人が判断して、転向されられただけ。逃げ道として帽子の仕事をやっている感じがして。夜間のバイトをしたこともあったので、それよりはモノを作っているほうがいいだろうと、最初はお金を稼ぐ手段でしかありませんでした」
自分がイメージしていたファッション界の王道への執着と、コンテスト活動で気づかぬうちに作り上げてしまったプライド。それらが拭えず、釈然としない気持ちのまま時が過ぎた。

「帽子の注文は絶えずきました。服も作りましたが、誰かがしんどい思いをする状況が続いて、例えば仕事をしたのに大赤字とか。でも帽子を作っていると、みんなが幸せになるんですよね」

日爪さんのアトリエより。オリジナルの木型とシーチングを使った試作。


「人は“やりたいこと”と“やるべきこと”が必ずしも同じではない」

そんな経験から学んだのは「人は“やりたいこと”と“やるべきこと”が必ずしも同じではない」ということ。受け入れるまで3年を費やした。

「生きるって何だろうとひたすら考え、たどり着いた答えは、より長い間、幸せだと感じていられることでした。じゃあ、僕にとっての幸せは何かというと、人に喜んでもらえることだったんです。それまでの僕は、あらがうことが人生だと思っていましたが、それを止めた時に幸せが生まれたという感覚がありました」

そんな折、もう一つの決定的な出来事があった。骨董通りにオープンするコンセプトストアからアートピースとしての帽子制作を依頼された時のことだ。

「クリエイティブディレクターが、僕の世界観が合うからと声をかけてくださいました。誰も見たことがない帽子ができるんじゃないかと期待もしてくれて。でも全然ダメだったんです。最初のミーティングで100枚くらいデザイン画を見せましたが『今まで見たことがあるものばかり、つまらない』と追い返されて。それが三度続いて、最後のチャンスとして実物を持って行くことになりました。それで、その製作をしているうちに『これだ!』っていうものを掴むことができたんです。それまでは漠然としたイメージはありましたが、具現化できずにいて、余計な既成概念を打ち消すために、ひたすら手を動かしていたら自分の中に絶対美の存在を見出すことができたんです。これなら世の中のために自分の能力を生かせると思い、帽子作りに命を捧げようと決めました。完成した帽子をプレゼンした時には『これが見たかったんだ!』って涙を流してくださいました」

コンセプトストアのために作った帽子。このクリエイションが人生の転機となった。©Nobuki Hizume


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