聞き手・執筆/鈴木みのり 
Interview & text : Minori Suzuki

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映画『ペトルーニャに祝福を』より

 くすんだベージュに鮮やかな花柄のワンピースを着た、密林のような緑の前に座るペトルーニャ。メインビジュアルから受ける印象はポップだけど荘厳で、惹きつけられる。監督のテオル・ストゥルガル・ミテフスカに伝えると、創作の契機に話が広がった。

 
「脚本の執筆中に滞在していた森の中で写真を撮ったんです。その中の自分の姿が、まるで打ち捨てられたように怯えてる小動物にも見えながら純粋なものがあるように感じ、「When I Was an Animal」とタイトルをつけました。映画を作るときは一つの絵画、詩篇、歌から始めることが多く、その写真からこの映画のビジュアルのスタイルを確立していったんです。例えば、そのとき私が着ていた赤いチェックのドレスと、同じような柄のパンツをペトルーニャも着ています」

 家父長制、支配的な宗教観、就職難といった現実はまさに森のようで、行き場を失ったひとりの女性が、それでも生き延びようとする姿は生々しい物語でありながら、どこか神話のような抽象性も感じられる。北マケドニアの街シュティプで撮影された『ペトルーニャに祝福を』は、男性のみが参加できる、キリスト教・東方正教の神現祭の日の行事である一人の女性が十字架をつかみ取ったという、実際に起きたできごとを元にしている。

 「川に飛び込む(序盤の)シーンは、ペトルーニャの変化の道のりが始まり映画全体においてものすごく重要なので、YouTubeに上がっている神現祭の儀式のさまざまな映像を見まくって、リアルなものに近づけました。リアリズムの追求だけでなく、事件が実際に起きた街で撮影したかったのは、撮影隊が入るだけでひとつの問いかけが始まるんじゃないかと期待したんです」

 物語による再現は、現実を捉え直すきっかけになる。北マケドニアで若い女性が置かれている苛烈な社会構造の象徴であり、日本に住んでいるわたしたちにとっても覚えのあるものではないだろうか。川のシーンは、女性として選択肢を限られてきたペトルーニャが何かを選び取る瞬間であり、そのダイナミズムは、現実にも女性が主導的な役割につきにくいだろう中で、監督として決断していくミテフスカ自身と重なる。極寒の真冬に、演技を学んでいる学生、役者、街の住人たちも合わせた250人ものエキストラやスタッフを率いた撮影だったというだけあって、力強くなまなましい演出に目をみはる。

 ペトルーニャは、大学で歴史学を学び、「共産主義と民主主義の融合への関心がある」と自分の思想を語る言葉を持つ。同時に、動物的な直観もあり(狼、羊に例えられるセリフも出てくる)、多義性が魅力的なキャラクターだ。

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映画『ペトルーニャに祝福を』より

 「今、北マケドニアの若者たちは哲学、社会学、文化人類学、歴史学を志望する人は少なくて、ほとんど経済学、マーケティングを志望するんです。美術史を理解せずに美術作品は作れるわけがないのに。ペトルーニャが歴史学を専攻しているという設定は、物質主義になっている今日の社会に対する、映画としてのリアクションなんです。残念ながら多くの男性、そして女性もこの群れから離れようとしない、このままでいいと選択をしている。既存のマッチョな父権主義、家父長制な構造に栄養を与えてしまっている現状の構造に対して、本当ならばもっと多くの人が疑問を感じなければいけない、だけど足りていない」

 高等教育を受けてきたペトルーニャが実務には役に立たないと評価される、序盤の縫製工場のシーンのおもしろさに通じる話だ。撮影地のシュティプで、かつて豊かだったという織物生産のリアルな描写であると同時に、無機質な空間で女性たちが伝統的なジェンダー役割である縫い物に従事するというメタファーだろう。

 「男性と女性の不均衡さを際立たせるため、ボスのガラス張りの部屋を作りました。その中でリラックスしている彼の周りには奴隷のように働いている人たちがいる、という絵にすることで、この街における女性たちの経済的なポジション、立ち位置について示唆したかったんです。北マケドニアの平均月収が250ユーロなのに対して、彼女たちの労働環境はひどく、8時間働いて月収150ユーロなんです」

 女性は出産・子育てをするという偏見から直接的な労働力として持続性がないと見なされて大学の入試で減点され、相対的に女性の非正規雇用は多く、教育への予算が削られて、判断の経緯が不透明な任命拒否が続く日本学術会議のように知的な営みが軽視される。こうした、泥沼のような日本社会とペトルーニャが置かれている状況は、地続きなのではないかと思えてならない。

 「みんなが歌っている曲を自分が歌わないというのは難しいですよね。政府から圧力をかけられることもですが、自分の属している社会のグループに受け入れてほしいと思うと自己検閲の空気に疑問を呈さなくなる、それが実は私たちの一番の敵なんじゃないか。北マケドニアやバルカン諸国に限らず(世界的な)大きな問題だと思います」

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映画『ペトルーニャに祝福を』より

 『ペトルーニャに祝福を』が日本公開予定だった2020年の春以降、世界で起きているできごとはもちろん、本作が制作された2018年から予見していたとも言えるが、ずっと同じような問題が現実に続いているとも言える。
抑圧的な軍事政権と巨大な権限を与えられた王室の改革を求めるタイの反政府デモ、立法の根拠を示さない検察庁法改定案や新型コロナウイルスの抑制と医療体制の拡充より東京オリンピックの開催優先など、情報や記録を出さずに強権を振るう現在の日本政府、反証されているQアノンの陰謀論、アメリカでの警察権力の解体を求めるブラック・ライヴズ・マターの再燃。
本作で警察は、法に基づいて市民を守る立場であると同時に、ペトルーニャに根拠なく警察署内にとどまることを強いる存在でもある。ただし、男性中心的な社会構造の写し鏡のような警察の中でも、規範に合わないからとペトルーニャを否定するような人だけでなく、寄り添おうとする人もいる。また、事件を取材するテレビ局のリポーターのスラビツァは、ペトルーニャに協力的であると同時に、仕事で自己実現しようとするあまり女性蔑視の物語へと回収しようとする。しかしこの映画は、単純な「男性/女性」の二項対立の構図には陥らない。

 「北マケドニアで公開されて最初にレビューを書いた二人の女性の批評家は、ボロクソに書いたんですよね。女性同士のシスターフッドも描かれた映画なのに(笑)。タブーに触れたり、政治体制の側にとって居心地悪くなるような問いかけをするこの映画に対して、メディアを通してのバッシングも起きます。でも意見が分かれることについてはどうしようもないですよね」

 映画の中ではさらに、複数の「女性」の立場も描かれる。特に際立つのはペトルーニャと、娘を規範で縛ろうとする母親の関係だ。

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映画『ペトルーニャに祝福を』より

 「伝統をどう受け入れ、その中で自分自身をどう再定義していくかは私たちが、そしてペトルーニャが抱える大きな問いでもあります。母親は古い記念碑、彫刻のようなキャラクターで、未来に何があるのかを見ようと首や頭の向きを変えることさえしない、しかも自分が囚われていると気づいてすらいない、悲劇的な存在です。世代間の対立において、自分たちの可能性に鍵をかけてしまっている母親たちの世代に対して、かわいそうだという気持ちがあるけど、それはつまり、これから私たちがどんなものになるのか・なれるのか、希望を持っているということでもありますよね」

 ペトルーニャが友人から借りて着ている、魅力的な花柄のワンピースは北マケドニアのブランドなのかと思っていたら、笑顔のミテフスカから「ZARAなんです」と教わった。欧米を中心とする、資本主義経済や物質主義の象徴でもあるファストファッションは特定の地域で「安く服を買える」というメリットをもたらす一方で、ジェンダーによる役割規範と安価な労働力を別の地域に求めるグローバル化によって搾取を生み、貧困を作っている、まさにペトルーニャが対峙する相手とも言える。しかし、そのブランドに身を包んで変化を起こそうとするペトルーニャの姿は、それでも希望であり、勇気を与えてくれる。

 「北マケドニアにはおもしろいファッションデザイナーもいるし、家具のデザイン、工業デザイン、コンテンポラリーアートの若い作家の中に、ポジティブなクリエイティブの動きもあるんです。小さな国だしスケール感は(他国に比べると)決して大きくないけど、一条の光はある。私も社会的な責任を感じて映画を作っているし、勇気を持って挑発していきたいですね。群に追従するために生まれてきたわけじゃないから」

 わたしたちは既存の社会からは逃れられず、その中で選択するしかない。そうした矛盾、葛藤を手放さず、しかし少しずつでも変われる可能性をこの映画から、知性と大胆さを持つペトルーニャの姿から、感じ取ってもらいたい。

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映画『ペトルーニャに祝福を』より


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映画『ペトルーニャに祝福を』


STORY
32歳のペトルーニャは、美人でもなく、体型は太め、恋人もいない。大学で学んだのに仕事はウェイトレスのバイトだけ。主義を曲げて臨んだ面接でもセクハラに遭った上に不採用となった彼女は、帰り道に地元の伝統儀式に遭遇する。それは、司祭が川に投げ入れた十字架を男たちが追いかけ、手に入れた者には幸せが訪れると言われるもの。ペトルーニャは思わず川に飛び込むと、その”幸せの十字架”を手に入れる。しかし男たちは「女が取るのは禁止だ!」と男たちから猛反発を受け、さらには教会や警察を巻き込んでの大騒動に発展していく。 2021年5月22日(土)より、東京・神保町の「岩波ホール」ほかにて全国順次公開。テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督、ゾリツァ・ヌシェヴァ、ラビナ・ミテフスカ出演。アルバトロス・フィルム配給。

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監督/テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ TEONA STRUGAR MITEVSKA
1974 年旧ユーゴスラヴィア(現 北マケドニア)の首都スコピエの芸術一家に生まれる。子役としてのキャリアをスタートさせ、絵画やグラフィックデザインなどを学んだ後、ニューヨーク大学で映画の修士号を取得。2001 年に「VETA(原題)で映画監督デビュー、同作品で 2002 年のベルリン国際映画祭で審査員特別賞を受賞。その後、新作を発表するたびに数々の国際映画祭にノミネートされ、注目される。彼女の長編第5作目となる本作は、ベルリンでの受賞後も多くの映画祭で評価された。


インタビュー・執筆/鈴木みのり MINORI SUZUKI
1982年、高知県生まれ。「i-D Japan」「wezzy」「キネマ旬報」「現代思想」「週刊金曜日」(2017年書評委員)「すばる」「新潮」「ユリイカ」他で執筆。ジェンダー、セクシュアリティと身体のあり方、クィアな運動・理論への関心を通して文学、映画などについて考える。共著に『「テレビは見ない」というけれど』(青弓社)。2018年、範宙遊泳の『#禁じられたた遊び』に出演。