ファッション業界で共に働き、新しい価値を作る
文化服装学院出身のクリエイターたち

Tamme/DAT

(左から)代表取締役 社長 浅沼 惇さん、デザイナー 玉田達也さん、生産管理 倉持康弘さん

2021年、浅沼惇さんと玉田達也さんが、DATを設立。’21-’22年秋冬より、玉田さんをデザイナーとしたメンズブランドTamme(タム)をスタート。現在は倉持康弘さんを加えた3人で会社とブランドを運営する。タムは、固定観念への敬意と逸脱の姿勢を持って、クラシックとモダンが融合する気品ある現代ストリートを創造する。

同級生と会社を立ち上げて働くということ

倉持康弘(以下、倉持)学生時代、玉田はちょっと異質だったよね。いい意味で「変人」。だって飲んだ後、たま(玉田さん)の家に泊まりに行ったら、僕が寝てる横でミシン踏んでたんだから。

浅沼 惇(以下、浅沼)玉田を飲みに誘うと「僕の家でもいい?」って言うんだよね。行くと、みんなが飲んでる横で玉田が縫ってる。

倉持 「やらなきゃいけないことがある」っていうのも、課題じゃなくて自分が着る服の裁断だったりして。

玉田達也(以下、玉田)あの頃は引きこもりみたいだったからね……。浅沼とやっさん(倉持さん)とは、ずっとつるんでいたし、一番信頼できて、気を許せる相手。と同時に、二人がこれまでやってきた仕事の実績や経験値を信頼しています。浅沼とは、学生時代から将来的に一緒に仕事ができたらいいねと話していて、ちょうどいろいろなタイミングが合った2021年に、会社とブランドを立ち上げました。

倉持 僕が入ったのはʼ22年9月。前から二人には声をかけてもらっていたのですが、家族がいるし、仕事的にもすぐには前の会社を辞められないという話をしていました。ただ、玉田は学生時代から突出していたので、内心、会社として動き出しさえすれば大丈夫なんだろうなと思っていました。

玉田 浅沼と二人で会社に必要な職種を話している時、まず生産管理だろうと。そうしたら、やっさん(倉持さん)しかいないねって一致して。

浅沼 誰に入ってもらうのがベストか、玉田と話していたんです。

倉持 で、僕が選ばれたと。

浅沼 偉そうだけど……はい(笑)。仕事のスキルと人間力で、倉持しかいないだろうと。アパレルで長く働くのは難しいことが多いのが実情ですが、その中でも、自分たちはアパレルの仕事を長く続けられる会社にしたいというのがビジョンとしてあります。同級生だからとか、仲がいいからというわけではなく、あくまでも、二人の仕事と才能を知って信じているから一緒に働いています。でも本質的な性格がわかった上で仕事ができるスムーズさはあるかな。

倉持 仕事の役割が別々で、時間帯もバラバラなのがバランスとしていいのかもしれない。

玉田 確かに。ストレスなくものづくりができる環境が欲しい、というのが会社(ブランド)を作る時の思いでしたが、本当に今は、ストレスなく仕事ができています。未来を見据える中、現時点でいちばんの目標は、パリの公式スケジュールでショーを続けられる地盤を作ること。会社としては、いずれ糸から作ったり2次流通の仕組みを考えたりと川上から川下まで携わることができたらいいなと思っています。

倉持 前に働いていたコム デ ギャルソンで最もすごいと思っていたのは、デザイナーが自由にクリエイションできる環境が最大限、作られていることでした。それには会社の地盤がある程度しっかりしていないといけなくて。今はできる限り早く、玉田が100%の力で外に発表できる地盤作りをしていきたいと思っています。あとは、おしゃれな会社にしたい(笑)。

浅沼 会社の住所を港区にしたいよね(笑)。

2023-’24AW
1953年に提唱された建築様式「ブルータリズム」が発想源。コンクリート建築の中から生活の光があふれるように、外と内が対比を成す表現やテクニックが特徴。’50年代のカルチャーを象徴する、エドワーディアンジャケットやヴィンセントパンツなどを刷新する試みも。

文化服装学院で学んだこと、通ってよかったこと

玉田 僕は高校卒業後、文化服装学院の服装科に入学しました。動機は、シンプルに服が好きで、自分が着るものを作りたかったから。服装科では基礎を学ぶことで、志向性や得意分野を見つけられました。そこで僕はデザインが好きだと気がつき、3年次に進んでデザイン専攻に入ったんです。その時の担任の先生には、目指す方向にうまくレールを敷いてもらい、力を伸ばしていただきました。デザインしたものを形にするという、クリエイションの基本を学んだのがこの時です。その後、4年次で、当時新設されたばかりのファッション高度専門士科へ。そこで魅力的だったのは、1年かけて自分のブランドのコレクションを作るカリキュラム。デザイン専攻で見つけた方向性をさらに発展させることができました。今振り返ると、文化の4年間は「基礎がどんどん広がる」ような時間でした。服を作ることや、この業界で必要な知識の根っこの部分をたくさん得たイメージです。

倉持 僕は服装科の2年間、文化に通っていました。最初から、2年で学べるだけ学んで仕事をしようと決めていたんです。学科は幅広く服作りを学べる場所で、今、僕がやっている生産管理の授業もありました。そのことから将来の可能性が広がったと思います。というのも、僕はもともとパタンナーや企画志望だったのですが、その職種では本当に就職が決まらなくて。最初に就職した会社は、幅広くいろいろなことができるからという理由で選び、そこを辞めた時に見つけたコム デ ギャルソンの求人募集が「生産管理」。学生時代に多少なりとも生産管理を授業で経験していたから、受けてみようかなという気になれたんです。結果的に、コム デ ギャルソンでは14年間、生産管理として働きました。今はこれが天職だと思っています。

浅沼 僕の場合は、作るのに向いてないっていうことに気づけたのがよかったかも(笑)。

倉持 浅沼の課題は僕がやってたからね〜。

浅沼 そうだったね……。あ、友達ができたのはよかったな。近くにこういう人(玉田さんを指す)がいたから、学生時代から僕は作る道は違うんだなって思っていたのですが、ファッション業界で働きたかったので、セレクトショップの販売職に就きました。「リフト」「ステュディオス」「アディッション アデライデ」で働いてきました。

倉持 学生時代に一番やりたくないと思っていた生産管理の仕事を15年やっている僕が思うのは、やりたいことが向いていることとは限らない、ということ。そもそも、本当にやりたいことを仕事にしてうまくやっていける人なんて、数少ないんじゃないかな。
 その現実がある中で、アパレルに関するいろんなものを吸収できる環境と、友達との横のつながりも、先生との縦のつながりもある文化で学ぶことは、自分の道を広げることに役立つと思います。その環境がある学生時代に好奇心を持っていろんなことに目を向けて、知ってみようとしたり実際に触れてみることが、将来に生きると思います。

玉田 僕が今、振り返って唯一やっておけばよかったと思うのは「遊ぶこと」。この年になって、結局、横のつながりだなということに気がついた。友達を大事にして、遊ぶ。そしてやりたいことを見つけたらとことんのめり込む。それが学生時代には必要なことかなと思います。

Tatsuya Tamada
1988年生まれ。文化服装学院ファッション高度専門士科卒業、文化ファッション大学院大学修了。第86回装苑賞受賞。パリ留学から帰国後の2015年に、サカイへ。6年間メンズのパタンナーを務め、ʼ21年にDAT設立。自身のブランド、タムをスタート。

Atsushi Asanuma
1987年生まれ。文化服装学院服装科を経て、セレクトショップ「リフト」にて5年勤務。「ステュディオス」などを展開するTOKYO BASEや、ザ・ウォール「アディッション アデライデ」担当を経て、2021年にDATを設立。

Yasuhiro Kuramochi
1983年生まれ。文化服装学院服装科卒業。卒業後、都内のブランドで営業とパタンナーアシスタントとして勤務。その後、コム デ ギャルソンで生産管理として14年間勤める。2022年9月、DATに入社。

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