社会のさらなる発展のため洋装の普及が急務とされていた20世紀初頭に、日本最初の洋裁教育機関として認可され、今年100周年を迎えた文化学園。長い歴史の中で数々のエポックメイキングな教育革命を起こしてきた文化学園の変遷と、ファッションに自由と歓喜をもたらした20世紀のモードの歴史を知る。
『装苑』2023年5月号掲載
illustration : Moeno Ohtsu
supervising : Shin Asahi (Bunka Fashion College)
この記事の内容
1p 1900〜1930年代
2p 1940〜1960年代
3p 1970〜1980年代
4p 1990〜2010年代
1900-1920年代
コルセットにNOを!
ウエストを解放したポール・ポワレの偉業
コルセットの誕生から20世紀初頭に至るまでの長きにわたり、細いウエストを誇示することが一つの美の基準となっていた。その因習に終止符を打ったのは、1903年に独立し24歳で店を持った若き鬼才、ポール・ポワレ。古代ギリシアのキトンや新古典主義のシュミーズドレスを思わせる、ゆったりとしたシルエットの筒形状のドレスをデザインすると、女性たちは心を奪われその解放感に夢中になった。
ボディメイクのためのではなく、その造形美からたびたびモードの世界に戻ってくる。19世紀頃のイギリスのコルセット(文化学園服飾博物館所蔵)
『Les robes de Paul Poiret』ポール・イリーブ 著 1908年(文化学園大学図書館所蔵)
東洋の美をも取り入れた、オリエンタルなディテールや色づかいも’20年代の特徴。1920年代のパリで着用されたコート(文化学園服飾博物館所蔵)
1910-1920年代
古代ギリシア時代のキトンにインスパイア!
マリアーノ・フォルチュニイの名作”デルフォス”
光沢のあるシルクに施された繊細なプリーツが体に添い、ラインを浮かび上がらせる。ステンシルプリントのベルトやヴェネチアングラスビーズの装飾もポイントで、デルフィ考古学博物館が所蔵するキトンを着用したデルフィの御者像にちなみ、デルフォスと名づけられた。服飾博物館に必ず所蔵されているといっても過言ではない、象徴的なデザイン。
1920年代
狂乱のジャズエイジ到来!
フラッパーガール参上
第一次世界大戦が終結し、迎えた1920年代。デザイン様式はアール・ヌーボーからアール・デコへと移り変わり、ファッションもその影響を受け直線的なラインや幾何学模様が流行する。おてんば娘とも訳されるフラッパーガールたちはカフェでチャールストンを踊り、スカート丈は一気に短くなり、自身をきらびやかに美しく飾り立て世を謳歌した。
中央から時計回りに、1920年代中頃のイギリスのドレス、1920年代のフランスの帽子、アクセサリー店の宣伝用に作られていた1920年代のイギリスの扇、1920年代のベルージア製のシューズ、口金のデザインがアール・デコ的な1920年代のパリのバッグ、1925年頃のヨーロッパの手袋(すべて文化学園服飾博物館所蔵)
1920-1930年代
モダンガールのギャルソンヌルック
男性用の下着素材であったジャージーを女性服に取り入れ、夜の社交場にリトルブラックドレスを浸透させるなど、次々と新スタイルを生み出してきたガブリエル・シャネル。’20年代に出現したローウエストでストレートシルエットのベーシックな服に、ショートヘアの"少年のような娘"姿は、1922年に出版されたヴィクトル・マルグリットの小説『ギャルソンヌ』の主人公の装いそのものであり、シャネルのような新しい女性のためのファッションだった。
1920-1930年代
バイアスカットの女王!
マドレーヌ・ヴィオネの美しいドレープ
布をたて地・よこ地ではなく、布目に対し45度で裁断するバイアスカットの考案者、マドレーヌ・ヴィオネ。小さな木製の人台を用いてドレスを試作し、その効果を研究した後に裁断する手法により、なだらかに体の上をはうようなラインとそこから広がる美しいドレープのスカートを持った、エレガントで完璧なドレスでモード界に名を残した。
文化生なら必読! クラシックな28点の代表作をひもとき、理解することで、新たな創造が生まれてくる。『VIONNET副読本 マドレーヌ・ヴィオネ代表作28点』 文化服装学院ヴィオネ研究グループ 編、¥3,080
1930年代
グラマーなスリム&ロングシルエット
ウォール街の株価大暴落が引き金となり世界的な大恐慌に陥った1929年、ジャン・パトゥが発表したデザインを境に、スカート丈は再びロングが流行する。ギャルソンヌルックは廃れ、自然なボディラインをドレス越しに感じさせるスリムなシルエットが主流に。若者がモードの主役となった’20年代を経て、’30年代は成熟した女性美が尊ばれた。
軽めのサックスブルーが美しい正装用のドレスは、胸もとと袖山にメッシュ素材を使用し、花のモチーフを施している。1930年代ヨーロッパのドレス(文化学園服飾博物館所蔵)
スリム&ロングシルエットの女性が表紙を飾る、月刊誌「トゥレ・パリジャン」 1934年6月号(文化学園大学図書館所蔵)
1930年代
ショッキングピンクの生みの親!
エルザ・スキャパレリのファンタジー
サルバドール・ダリやジャン・コクトーらと交流し、アートをモードに取り入れエキセントリックで遊び心あふれたファッションを生み出したエルザ・スキャパレリ。1936年、アクセサリーを担当していたジャン・クレマンが作ったオリジナルのピンクを全コレクションに使用したことから、その奇抜なアイデアも相まって、ショッキングピンクという言葉が誕生した。
\文化学園の歩み/
――1918年
華族や政財界の顧客を抱える飯島婦人服裁縫店で働いていた頃の文化学園創立者、並木伊三郎(前列左端)。
――1919年
―並木伊三郎、東京・青山に「並木婦人子供服裁縫店」を開き、同店舗内に「婦人子供服裁縫教授所」を開設
―ヴェルサイユ条約調印
当時の花形職業だったシンガー・ミシンの外交員として活躍していた文化学園創立者、遠藤政次郎(右から2番目)。
――1920年
―並木伊三郎と遠藤政次郎が教授所で初対面
―国際連盟成立
――1922年
―東京・牛込袋町に「文化裁縫学院」を独立校として開設。この頃、並木が文化式裁断法を確立
――1923年
―日本初の洋裁教育の各種学校として認可を受け「文化裁縫女学校」に改称
―関東大震災
1923年6月23日、東京府各種学校令により、日本初の洋裁教育機関として認可された。
――1926年
1925年に漏電による出火で校舎を失うも、品川町の旧小学校校舎を借り受け授業再開。ブラウスの袖についての講義を熱心に受ける生徒たち。
――1927年
―現在の代々木に移転
東京府代々木山谷(現在の文化学園所在地)の土地を入手し、初の学園所有の新校舎を建設。
――1928年
1928年の並木式原型。これをもとに洋服を制作していく。
――1933年
―第1回夏期講習会を開く。以後、恒例に
――1934年
―出版部・購買部を設置し、雑誌や書籍を出版。学生作品のバザーを開催し、以後、恒例に
――1936年
―『文化洋裁講座』全6巻が完成
―服装研究雑誌『装苑』を創刊
―「文化裁縫女学校」を「文化服装学院」に改称
現在も文化祭で千客万来の好評を博す、文化服装学院の名物企画バザー。1936年頃のバザーの様子も大盛況。
文化式服装教育の集大成ともいえる『文化洋裁講座』。通信教育にも使用された。『装苑』創刊号誌面にも広告を掲載。
服装の改善とその普及のため、1936年に創刊された服装研究雑誌『装苑』。デザイン論や西洋服装史、パリやアメリカのトレンド紹介のほか随筆や小説も掲載した。
――1938年
1930年代に流行したスリム&ロングシルエットのイブニングドレスの立体裁断を指南する町田菊之助。
――1939年
―第二次世界大戦勃発
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