憧れは、運命を引き寄せる!
1枚のレコードから始まった
ダイアナ・ロスとの出会い。
アメリカのポップソウルを代表する女性シンガー、ダイアナ・ロス
1964年から’69年の間に12曲もの全米No.1シングルを出した、モータウンの看板グループ、ザ・シュープリームスのリードボーカル。’70年からはソロアーティストとして6曲の全米1位を獲得した、20世紀のミュージックシーンで最も成功した一人。当時の動画がYouTubeなどにアップされているので検索を。
私が文化服装学院に通っていた頃から、髙田賢三さんたち仲間と集まると、必ずザ・シュープリームスのレコードをかけていました。最初はその1枚しかなかったから、何千回聞いたことでしょう(笑)。そして歌っているダイアナ・ロスが、カッコいいことは分かっていました。人はたいてい、自分にないものを持っている人に憧れます。なりたい!と思って誰もがなれるわけはないんですけど(笑)、憧れる気持ちが何かを引き寄せたり、未来を変えていくのです。
若い頃に何度も聞いた懐かしのドーナツ盤
コシノジュンコさんの青春時代を振り返るのに欠かせないのがこの曲。ダイアナ・ロスがボーカルを務めていたザ・シュープリームスの『ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ』のレコード。
ちょうどザ・シュープリームスが解散した1977年のこと。NYを訪れた際、アストリアホテルの前を通ったら「今日、ダイアナ・ロスのショーがあります」みたいに書いてあるのを見つけて、慌てて飛び込みました。そのショーでダイアナ・ロスは、衣装をがらりと変えて何度も登場しましたが、その中でもスパンコールがついた、ショッキングピンクのドレスが衝撃的で! いまだに鮮明に覚えています。見たことがないものから得る衝動って忘れられないものになるんですね。NYで活動していたヘアスタイリストの須賀勇介さんにその話をしたら、「ダイアナ・ロスに会ったら、ジュンちゃんのことを話しておくよ!」って言ってくれました。
そんな話すら忘れていた頃。東京でコンサートがあったダイアナ・ロスが、なんの連絡もなく私のブティックに来てくれたんです! その時、私は不在でしたが、偶然、作詞家の安井かずみさんがいて、「今からコシノのファッションショーがあるの。行ってみない?」と話してくれたおかげで、急遽ダイアナ・ロスが来ることに! 連絡を受けた私は、慌ててショーで使う音楽を全部、ダイアナ・ロスに換えてやりました。終了後、楽屋に来てくれた彼女は「洋服を全部買うわ!」って言ってくれて。とても嬉しかったけど、展示会用の服だったので1/3だけ選んでもらって、翌日、開催予定のコンサートの楽屋に届けに行ったら、そこにNYで見たショッキングピンクの衣装が!「私、これNYで見た!」って話したら、「あのショー見た人は何人もいないの!」って喜んでくれました。今日のライブも見る?って聞かれたので、もちろんって答えたら、なんとステージの上に席が(笑)。もう1脚、椅子があって、誰だろうと思ったら、隣に座ったのがディオンヌ・ワーウィックでした‼
コシノジュンコさんが一番好きな曲だという、ダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイのデュエット曲『ユー・アー・エブリシング』のレコード。
たった1枚のレコードから始まって、本物に会えて、見たことのない衣装に影響を受けて、親しくなれて……。これは運命でしかないのですが、そのすべては、憧れる気持ちと自らのひらめき、そして行動でつながりました。皆さんのミューズが誰でも構いません。自分が素敵!と思うものに素直でいることが、新しい出会いを生みます。憧れがあるから、受け入れられるものがあるんです。私はいまだに、ショッキングピンクのドレスに受けた衝動が原動力のひとつになっていますが、若い頃に得た衝撃は、必ず将来、役に立ちます。『装苑』を読む若い人たちは、他人の目なんて気にしないで、夢中になれるものに素直でいてほしいですね。
コシノジュンコ Junko Koshino
文化服装学院在学中、19歳で装苑賞を受賞。1966年にブティック「コレット」を開店。’78年にパリ・コレクション初参加。’85年に北京で中国最大のファッションショーを開催したほか、’90年にはNYメトロポリタン美術館でのショー、ベトナムで日本人初のショーを、’96年にはキューバで初の外国人デザイナーによるショーを開催するなど、デザインの力で様々な境界線を越える活動を行う。2017年、文化功労者顕彰、’21年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ受章、’22年、旭日中綬章受章。’25年に開催の大阪・関西万博ではシニアアドバイザーを務める。
WEB:http://junkokoshino.com/
Instagram:@junko_koshino_official
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