コシノジュンコの原点から、花の9期生時代を聞く
このページでは、コシノジュンコさんの「原点」から、コシノさんが文化服装学院の学生だった頃を存分に語っていただきます。
コシノジュンコ:高校生の頃、私は美術大学への進学を目指していました。そうすると、まずすることはデッサン。美術部の部室で、黙々とデッサンをしていたのが私の原点です。美大の油絵科へ進もうと思っていたのですが、皆さんご存じのように、母が大阪の岸和田で洋装店をやっていて*。 結果的に、私は母と同じ道に行く運命……使命だったんですね。18歳で上京し、姉も行っていた文化服装学院のデザイン科に入学。今のアパレルデザイン科です。そして19歳で「装苑賞」をとりました。
* コシノジュンコさんのお母さま、小篠綾子さんは、大阪・岸和田で「コシノ洋裁店」を営んでいた。ジュンコさんは、そこで姉のヒロコさん、妹のミチコさんとともに育つ。母・綾子さんは、2011〜’12年に放映されたNHK連続テレビ小説「カーネーション」のヒロインのモデルとなった。
「装苑賞」って、まずはデザイン画を出すでしょう。私は1日30枚、絵を描いていたんです。それで4人の審査員の先生に30枚ずつデザイン画を出した。それが苦でもなんでもなかったんですね。絵は私にとって、言葉よりも自分を伝えることができる手段だったんです。装苑賞の受賞作品*は、森英恵先生が選んでくださいました。当時、森先生は新宿にあった洋裁店「ひよしや」をやっていらして、このウールは、偶然そこで買っていたものだったんです。
* コシノさんは1960年上半期開催の、第7回装苑賞を史上最年少で受賞(受賞時の氏名表記は小篠順子)。佳作にあたるリズムミシン賞も同時受賞し、同賞には、同級生の髙田賢三さん、松田光弘さんが並んだ。コシノさんの最年少受賞記録はいまだに破られていない。
森先生には「脇の縫い目が曲がってる」なんて言われましたけど、それは、このコートは私が初めてゼロからすべて自分で作った服だから。私はデザイナー志望だったので、1次審査を通過した3点のデザイン画のうち、2点は実習科の人に頼んで縫ってもらったんです。でもどうしてもあと1点は縫製を頼める人がいなかった。そこで、当時住んでいた笹塚の4畳半のアパートをブルーの毛だらけにしながら生地を立体裁断して、自分で縫製もしたんです。その作品が装苑賞をとったのですから、「最後までやるんだ!」という精神や魂は通じるものなんだなと思いましたね。 デザイン科の同級生には、ケンゾーの髙田賢三さん、ニコルの松田光弘さん、ピンクハウスの金子功さんがいました。みんなまっさらで、本気でプロを目指していた。文化は、私が入学する前年(1957年)に、男子生徒に門戸を開いたんです。まさに服飾を一生の仕事にしようという男性たちが入学してきたタイミングで、皆、大きなビジョンを持っていた。のちに「花の9期生」*と呼ばれるこの仲間たちに出会ったこと、そして学校の外でいろんな人に会ったことが、とても大きかったですね。
* 1958年に文化服装学院に入学したコシノジュンコさんは、1年の基礎科を経てデザイン科へ進学。その同級生には髙田賢三、金子功、松田光弘、北原明子など、その後の日本のファッション業界で活躍する錚々たる面々がおり、彼らは「花の9期生」と呼ばれた。互いに切磋琢磨し合う良好なライバル関係を築いた花の9期生は、パリで立体裁断を学んだ小池千枝教授のもとで研鑽を積み、当時の装苑賞の常連でもあった。また、多摩美術大学に通っていた三宅一生は有志の研究グループ「青年服飾協会」を立ち上げ、花の9期生と交友を持った。
学生時代は、仲間たちと授業をさぼって歌舞伎を観に行って、歌舞伎の人と仲よくなったり……これは学校では言っちゃいけないことよね(笑)。あとは音楽が好き。私の仕事の始まりは、1967〜’71年に活躍したグループサウンズのバンド、ザ・タイガース*の衣装でした。
* 欧米のロックに影響を受けたバンド形式の音楽グループを指すグループ・サウンズ(GS)の人気筆頭株の5人組で、沢田研二がリードボーカルを務めていた。
いつだって「行ってみたい、見てみたい」という好奇心の先に広がるものがあるんです。一人でじっと家にいても何にもならないの。あとは楽しむこと。そのことに年齢も関係ないんですよ。